荒 寿子さん
あら としこ
南相馬市小高区出身、中学校教諭。教科は音楽。2011年3月の震災発生時は浪江町立浪江中学校に勤務。2021年度インタビュー時は、飯舘村立いいたて希望の里学園勤務。趣味はミュージカル鑑賞。
荒寿子先生は震災時、浪江中学校2年生の学年主任でした。原発避難により、浪江町の学校は元の校舎での再開が叶わず、4月から二本松に学校を集約して業務を再開。その時、先生は「何かをしなくては」という思いに駆られて、「学年だより」を作り始めます。それは全国各地に散らばった生徒達のもとへ届けられ、温かい思いを繋ぎながら、およそ1年に渡って作成・発信されました。「離れていても、130人全員が自分の生徒」という信念で、生徒達を気にかけ続けた先生。先生が本当の意味で、「教え子たちは卒業した、巣立ったんだ」と思えたのは、何年も後のことでした。
避難の夜、連なる車のヘッドライトに不安が募った
――まずは2011年3月11日に、どこで何をしていたか教えてください。
荒その日は卒業式でした。当時、浪江中学校2年生の学年主任と吹奏楽部の顧問をしていましたが、吹奏楽部の子ども達に「明日は大会の課題曲の練習をするから」という話をして帰したところで、地震が発生しました。職員室でひと休みをした後、その課題曲の楽譜を印刷していた時です。机の下に潜りましたが、多くの物が落ちてきました。一回収まったと思って中庭に行きましたが、余震が続くうちに「ここにいては危険だ」と先生方と、校庭に出ました。
そこではたまたま近くにあった校長先生の車のテレビが見え、「津波が」という情報が流れてきたのが印象に残っています。その後、会議室に集合がかかりましたが、そこで、「ペアになって生徒の家庭を訪問し、安否確認をしてきてください」という指示があったので、学校に残って校内を確認する先生方と、外に出て生徒の安否を確認する先生方に分かれました。
私ともう1人の先生は、大堀地区の方に行って、生徒に会って、「あなたや家族は大丈夫?」「お家も大丈夫?」と声かけをして回りました。「この先は行けません」という地点まで行って戻ってきましたが、崩れている家を見たり、入れなかった所もあったりして、驚きましたね。
そして戻ってきた時には、体育館が避難所になっていました。そこには野球部の子ども達が手伝いに来ていて、いろんな物を運んでいて、すごいなと思いました。なにせ、体育館が卒業式のまんま。楽器もそこにあるし、椅子もあったり。それを子ども達が片づけている姿は、本当に印象的でした。どこかで声をかけてきたのか、先生が声をかけたのか、何があったのかよく分かりませんが、私達が体育館に着いた時には既にストーブや保健室の毛布が運ばれていました。
――浪江中学校は、海からどのくらい離れていたのでしょうか?
荒海からずいぶん離れているので、津波は全くありませんでした。その日も私達はまた会議室に集まりましたが、家庭のある先生方もいるということで、「帰っていい」という話になりました。私は小高だったので、自分の車は校庭に置いて、小高の先生と一緒に帰りました。やはり怖いし、どうなってるか分からないし。
――原発が爆発した話はいつ頃、聞きましたか?
荒12日の朝6時だったか、「浪江も避難しなさい」となりました。私も個人的に家族と避難しました。小高の区役所の避難所でおむすびをいっぱい作っていた頃に、何回目かの爆発の話を聞きました。文科省にいる従兄弟からも「爆発したから、避難しなさい」という話は聞いていて、一応私達がそこから離れたのが13日の夜だったかと思います。
――避難はどういうルートで、どこに向かいましたか?
荒「とりあえず避難を」と従兄弟から言われたこともあり、すぐに帰れると思ったのです。あさはかでしたよ。貴重品は持っていましたが、本当に2、3日で帰れると思っていたのでとりあえずの物を持って、車2台で、川俣を抜けて福島の方に行きました。その時のことで今でも忘れられないのが、車。夜だったので、ライトがすごく連なって。車のライトを見ているうちに、「これ、どうなっちゃうのかな」という怖さが募りました。
そうして福島市の妹のところに避難をさせてもらっているうち、「3月31日に、浪江の小中高の先生方はここに集まってください」という話があったので、私のアパートが決まる4月の頭までそちらにいました。
――3月末に集まるまでには、学校や生徒達と連絡は取っていましたか?
荒取りました。安否確認をしなさいという学校からの指示が学年主任にあったので、私から担任に連絡を入れて、全4クラスで130人くらいの確認をしました。担任の先生はクラスの生徒一人ひとりを確認して、私に結果を報告するというやりとりです。「全員、確認しました!」と連絡が来た時は、やはりもうほっとするしかないですよね。4人いた担任の先生のうち、女の先生が一人いたのですが、電話が来た時にはもう泣きながら。全員確認できたことを管理職の方に報告した時には、安心しました。そこからがまた大変ですけれどね。
学校だよりに込めた思い 「離れていても、130人全員が自分の生徒」
――ではそこからの話ですが、4月に浪江町の学校が、二本松で集約したのですよね。
荒4月1日、二本松の東和中学校に招集され、今後の勤務方針についての話しがあり、廃校になった学校(木幡第二小学校)で仕事をすることになりました。4月からの仕事は安否確認と、卒業した3年生の進学先へ送る書類の準備です。その他にも「何かせねばいけない」と思って、学年通信を出したいと校長先生にお願いして了解を得て、私が第1号を発行したのも4月でした。
5月には勤務先が発令され、他の二人の先生と一緒に、東和中学校で兼務することになりました。私は音楽の教員だったので音楽の授業にも兼務で入り、授業をさせていただいたり。あとは、授業が空いている時に避難所めぐりをしていましたね。
――学年だよりというのは、3月11日当時に受け持っていた2年生向け、つまり4月からの3年生向けのものですよね。どのような内容でしたか?
荒まず第1号としては、その時の担任の先生と、卒業式で送辞を読んだ次期生徒会長に原稿を書いてもらいました。住所確認は担任の先生にしてもらっていたので、北は青森、南は沖縄。全員に郵送しました。届かなくて戻ってきてしまったこともなかったですね。
各地の子ども達に届いた頃、今度は生徒会長にメールで色々なメッセージが入りました。それで生徒会長が、「こんなメッセージが入っています」と私に教えてくれて。それをどうしても共有したかったので、5月には第2号を出しました。
その後は、もうすぐ2学期が始まるという8月と、進路が決まる時期の9月に。8月25日に針道で浪江中が開校したので、そのお知らせも兼ねながら出しました。最後は2012年の3月に、卒業に合わせて記念文集という形で送って、締めくくりましたね。
――先生は、どのような思いで学年だよりに取り組んでいたのですか?
荒「思いを共有したいな」という気持ちと、「何かできないかな」という気持ちです。彼らには2年間の思い出はあっても、ここでの最後の学年の思い出は何もないですよね。それぞれの学校で文集を作ったり、卒業アルバムを購入したりというのはあっても。3年目に色々な所に行った子ども達は、そこで楽しい思い出を作れたとは思いますが、やはり「ここでの2年間の思い出を、何かの力にしてもらえればな」と思っていました。
文章の他にも、学校に残っているデータの中から写真を集めたり、2年生の時に文化祭でおこなった劇や合唱をDVDにして。それらをセットにして送りました。
――学年通信や文集、写真やDVDのセットについて、受け取った生徒達から何か反応はありましたか?
荒特にそういうものはなかったです。でもなんでしょう。それを期待してやっているわけではないので。彼らが大きくなってふと読みたくなった時、読み返してみようかなと思った時に、「あの時の自分」を振り返ることができる「思い出みたいなもの」であってほしかった。特にありがとうございましたとか感謝というのは、要りませんでした。何かの支えになればなと思っていました。
――先ほど、5月の学年通信には、生徒からのコメントを掲載したとありましたが、どのような内容でしたか?
荒掲載したのは、5月と8月かなと思います。コメントが沢山集まったのは、生徒会長が何かしてくれたからだと思いますが、それを最近読んだら、「みんなで頑張ろうよ」というコメントが沢山ありまして。この子たちは、14歳・15歳の時に皆で励まし合っていたんですよね。絶対に浪江に戻ろうよとか、会おうよというコメントがありました。辛いとか寂しいとかという言葉がなかったとは言えませんが、「みんな、頑張ろうよ!」というコメントが沢山あって、すごいという思いが胸に刺さりました。
――その生徒会長さんを含めて、今でも連絡を取るような教え子はいますか?
荒その生徒会長の子は、今は南相馬市の市役所に勤めています。たまたま仕事の用事があって連絡を取りましたが、その時には元気ですと話していました。彼女は文集に「人の役に立つ仕事につきたい」、医療関係か福祉・保育関係のことをやりたいと書いていたので、目標を達成したのかなと思います。
彼女は、浪江中が針道に仮設校舎を設置した時に、浪江に戻ってきた子です。開校した学校に戻ってきた子は数少ないですけれど、その子達も色々考えてのことだったんじゃないかなと思います。そこでは私は浪江中学校の職員として、戻ってきた子ども達との1年間でしたが、でも私の中ではやはり130人全員が生徒でした。浪江中で卒業できなくても、浪江の子。その子ども達に繋げてくれたのが、彼女だったと思います。
あの頃は、子どももそうですけれど、大人もすごく心を痛めていた時期でした。あの春は、桜を見ても綺麗とは感じませんでしたからね。やっと彼らが私の中から卒業したんだと思ったのが、彼らの成人式。普通だったら卒業させて、中学から巣立つので区切りになります。でも、区切れなかったですね。だからやっと成人式で、「あぁ、卒業させた」と思いました。
仮設校舎での初年度、虚しさの中でも「子ども達がいたから」
――2011年の9月に浪江中が針道の仮設校舎で再開した時は、どのような気持ちでしたか?
荒浪江中学校という名前の学校があるという安心感はありました。それに、そこに通うために転校してきた子達は、4月から8月までの間どこか中学校にいて、転校してきたわけですよね。だから、「私達もここで踏ん張らなきゃだめだな」というのはありました。
でも私の中では、その子ども達だけではなくて、「他の学校にいる子達も、やっぱり自分の生徒だ」という気持ちをずっと引きずっていましたね。その中で、浪江中学校に転校してきて、一緒に時間を過ごせる子達への思いは、ひとしおだったと感じます。
――仮設校舎になってから、先生の中で子ども達への接し方や指導のやり方、考え方に変化はありましたか?
荒どうでしょうね。その時は、時間に追われていましたからね。子ども達がどうしているのかなということが、いつも頭の片隅にあっての日々でした。学校が辛いという話も聞こえてきましたし、その子達はまだ仮設住宅に住んでいたんですよね。体育館での生活は大体終えていたかなというくらいで。だからある子は、受験勉強をするのに机がないと言っていました。どうやって勉強しているのと聞いたら、部屋も狭いから台所で。本来なら自分の家にいて、そこに自分の部屋があって。そこでできたことが、できないんですよね。それを見て話を聞いてるから、浪江中で仕事をしつつも、虚しさしか感じられない一年でした。
そして、私達は子どもあっての仕事なので、「それがなかったら自分はどうなってたか」というのはあるかもしれません。教員の仕事というのは生徒との関わりがあり、教える・一緒に学ぶということが重要です。でも、もしそれがなかったら、あの時私はどうなってたかなと思います。あの一年間は、「子ども達がいたからこそ頑張れた」というのはあるかもしれません。
――荒先生は、仮設の浪江中には何年間、勤務されていましたか? やはり年度を経るごとに、子ども達の様子は変わっていったのでしょうか。
荒針道の仮設校舎には、2015年まで4年間勤務しました。私がいた頃については、「そんなに簡単に、子ども達って変わらない」と思います。私が感じる限りでは、その年々を子ども達は精一杯生きていた。学校生活おいて、色々なことに挑戦していたような感じはしますね。
――震災や避難があったことで、例えば不登校になってしまったり、精神的に落ち込んでしまう子はいましたか?
荒いましたね。転校で行ったり来たりした子や、荒れてしまった子がいました。「もし元の学校だったら。色々な部活で、先輩と後輩の関係の中で学んでいったら、こうではなかったかな」という子はいます。地震があったことに責任転換するわけではないですが、「普通の生活で普通の学校だったら、同じ学校生活を送っていたら、この子はもっと楽しく学校生活を送れたかな」とかは思います。ただ、その子たちも成人しているのでね。成人式に行った時は、皆元気にしていました。子どもって強いなとは思いますね。
――もともと浪江中では、1年生から3年生まで担任の先生は持ち上がりだったのでしょうか?
荒持ち上がりでした。だから2011年度の3月の卒業式の前に、浪江中学校の卒業証書が欲しいという声が教育委員会に随分届いたそうなのです。親御さんたちというより、子ども達から。でも、それはできないことでした。管理職の人達も悩みますよね。
そうしたら卒業式の日、何人かが「一緒に卒業式を迎えたい」と、それぞれの学校の制服を着て保護者席に列席したのです。「証書はもらえないけれども、浪江中学校の校歌が歌いたい」と。その光景が新聞に載った切り抜きを今でも持っていますが、何とも言えない感動を覚えました。そういう子達がいるだけでも、この学年を持ててよかったなと思います。皆が色々なところに行ったけれど、持ててよかったなというのは私の中にあります。
――先程、震災が子ども達に与えた負の影響のようなものを聞かせていただきましたが、逆に「震災があったからこその、子ども達の成長」は3年間の中で見られましたか。
荒中学のその3年間では、感じられませんでした。やはり中学生なので、そんなに簡単に全部を受け入れて、納得して生活するなんてありえません。ただ、彼らが卒業して高校に行き、成人式に来た時に、穏やかな表情でいる姿を見たら、私の方がボロボロと涙してしまうくらいでした。子ども達から「先生、先生、大丈夫だよ、よしよし」みたいな感じでやられて(笑)。二文字で「成長」と表現するのも変ですが、皆に会えた時、「子ども達はなんて大人になったんだろう」と思いました。中学校の時の色々な苦労とか、その後の苦労があって、今ここにいるのかなというのは感じましたね。
「自分たちが浪江のためにできること」を考えて実践、そして伝える学習
――2012年度からは、中学校1年生として仮設に入学した子たちを、荒先生も主任として担当されていますよね。仮設校舎での最初の入学生と向き合うにあたって、そこには気持ちの切り替えというものがありましたか?
荒そういう気持ちでは接していました。ここからがスタートだということになるから、当たり前ですよね。先生方のメンバーも変わりますし。その中でふるさと学習というのがあったので、ふるさとのことを学び、中身の濃い「3年間のふるさと学習」をさせていただきました。
――ふるさと学習は、具体的にどのような内容でしたか?
荒簡単にいうと、1年生の時は「地域を知る」ということで、針道と浪江を取り上げて、「今いるところ」と「いるべきところ」を調べ、それぞれの良さを知る活動をしました。2年生の時は職場体験をしたので、その時は浪江で仕事をされていた人が二本松で開業しているような所を探し、体験をさせたりしました。
3年生の時は、「自分たちが浪江のためにできることは何か」というテーマで行いましたね。浪江で仕事をしていた人で今二本松にいる人のお話を聞いたり、仮設に行ってそこの人の話を聞いたり、あとは色々なお祭りに一緒に参加させてもらったり。それだけではなくて、「じゃあ自分たちができることは何か」と、一つ子ども達が考えたのが、「簡単に座ったままできる体操」でした。仮設にいると運動しないですよね。だから簡単に座ったままできる体操を、おじいちゃん・おばあちゃんでもできるようなものにして。美空ひばりさんの『川の流れのように』に合わせて。それも図式化して貼って、仮設に訪問してやって見せて、皆でやりましょうということもやったりして。仮設にいる人達や二本松で仕事をしている人に自分達も寄り添って、自分たちにできることはというテーマで進めましたが、すごく充実したものでした。
――震災前にも、総合学習はありましたよね。総合学習とは、全く違うものですか?
荒違いますね。前の時は、大きなテーマがあったとしても、1人1研究でした。でも今回、浪江中学校で3年間やった取り組みは、個々のテーマであっても、全員が目的は同じ。自分達が浪江のためにできることは何か。寄り添うこと。デイサービスや仮設に行って、そこにいる方々と触れあったり。
あとは、「なみえ焼きそば」のB1グランプリが郡山であった時に、ぜひともこちらも参加させてくださいということを商工会議所にお願いして。皆でイベントに参加、お手伝いさせてもらったなんて経験もあります。その経験を踏まえて、感じたことを自分たちでまとめ、発表させてもらったりもしましたね。
――そういった経験は今、どのように役立っていますか?
荒2015年4月に浪江中学校から飯館村立飯舘中学校(現在のいいたて希望の里学園に赴任しました。私が飯館に来たときは、飯館中のふるさと学習は各学年で行っていて、中学1年生は伝統芸の田植踊り、2年生は紙芝居、3年生は味噌作りをやっていたのです。
それが少し変わって、縦割りになりました。飯館2年目の時に私が担当したのがふるさと学習のメディア班でした。メディア班の子ども達は劇、ドラマを作りました。飯館に戻るか・戻らないかという、ちょっとシリアスなテーマで。3年目、つまり縦割りになった2年目は、「自分たちで何かできないか」ということで、メディア班で映像を作りました。4つくらいのグループに分れて、飯館のコマーシャル、それから飯館のことをミュージカル風に表現したもの。飯館のことを知ってもらうため・伝えるためのものを作りました。
――最後に、荒先生の教員生活の中で、震災とはどういうものでしたか?
荒教師として「やるべきこと」や「生徒との関わり」について、より一層考えを深めていくきっかけになりました。震災後、私にとっては日々の生活を、生徒達と歩みを共にしていく中で「できることは何か?」「何をどのように導き、今を乗り越えていくか」。また、「生きていくために大切なことは」を、教職に就く立場から考えるようになりました。
その時々に関わった多くの人との出会いは、私自身の教職という仕事の幅を広げ、それまで以上に生徒に寄り添い、一緒に考えていくというスタンスになりました。だからこそ、言葉の重みを感じ、「この時だから伝えるべきこと」を大切にしています。
長い教員生活において、私にとって「生徒」とは、私自身を人として成長に繋げてくれる存在だったと思います。