渡邊 智幸

渡邊 智幸さん

わたなべ ともゆき

富岡町出身、小学校教諭。2011年3月の震災発生時は川内村立川内小学校に勤務。現在、広野町教育委員会勤務。趣味はジョギング、カフェ巡り、スポーツ観戦。

震災時、教員6年目だった渡邊智幸先生。川内村の川内小学校4年生の担任だった先生は、震災の翌月から避難先で再開した小学校の5年生の担任に。さらにその翌年、帰村した川内小学校で6年生の担任を受け持ちました。高学年という多感な時期、避難によって散り散りになった子ども達を相手に、渡邊先生がどのように考え、地域や保護者と共にどのようにその成長を応援してきたのか。その経緯と先生ご自身の学びについて、お話していただきました。

避難所となった小学校、職員室で考えたのは「今ここにいるメンバーで、何ができるか」

――学校でのお話を伺う前に、まずは2011年3月に渡邊先生のご自宅があった場所と、ご自宅の被災状況を教えてください。

渡邊当時、私は双葉郡富岡町に両親と3人で住んでいました。3月11日は夜8時頃に帰宅しましたが、家の水槽などは全て落下。後の被害認定は半壊です。停電していたので、その日は車中で過ごしました。そして翌日の明け方に流れた富岡町の防災無線を受けて、避難所となった川内小学校に両親と3人で避難しました。私は川内小学校の職員だったので、その後しばらく小学校にいたのですが、両親は3月14日に弟がいる宇都宮市に避難してもらいました。

――3月11日は夜8時頃に帰宅されたということですが、川内小学校の午後2時46分の前後の状況を教えていただけますか。

渡邊担任している4年生のクラスで、帰りの会をしていました。金曜日でしたので、いつものように子ども達に「残り12日」となった終業式までの過ごし方について話をしていた時、地震が発生しました。川内村はその当時からスクールバスでの一斉下校だったので、1年生から6年生まで全員が学校にいて、一斉に校庭へ避難したことを覚えています。
 ちょうど雪がちらつくような中で、子ども達皆がまとまりながら暖を取っていたような気がします。その後、揺れがおさまってから、バスで迎えに来てもらったり、直接迎えに来た保護者に子どもを引き渡したりして、子ども達全員を返したのが、夕方の5時頃だったと思います。その後、職員にも各々の家族がいるので、帰れる人から帰っていくような流れでした。

――避難所で先生方は、どのような役割を担いましたか? 実際、「避難所になった際には、誰が何をする」といった役割分担や準備は、これまでされてきたのでしょうか?

渡邊そういった役割分担や準備は、これまで全くありませんでした。とりあえず職員室の中に、「富岡町の役場職員」と「川内村の役場職員」と「川内小学校の職員」が合同で詰めていたような状態です。施設のことについては教職員が一番分かっているので、例えば「体育館に避難してくる方々が暖を取れるように、ジェットヒーターを持ってくる」など、施設内の準備や設置を行っていました。
川内小学校の先生方も、全員が避難所に来られたわけではありません。私のような富岡町の住民はともかく、大熊や広野、楢葉から通勤していた人は、それぞれの家の近くの避難所に移っていましたので。
本来ならば「職務に専念」が前提なので、召集がかかったら勤務先に来なくてはいけないのですが、そういった距離的な事情や、ご家族や小さなお子さんがいるという先生は、なかなか来たくても来られないという状況でした。
振り返ってみると、自分が独身だったこともあって、私は比較的自由に動けていました。川内小学校に来られない先生から、「この子と電話が通じないから、学校から連絡してほしい」という連絡を受けて対応したりと、「今ここにいるメンバーで、何ができるか」を考えていましたね。

――その後、3月16日には村一斉避難となり、皆さんは川内小を出て避難しなければならない状況になりました。まとまってどこかへ避難したのでしょうか?

渡邊「一斉に避難する」と遠藤雄幸村長(フルネームOK?)が発表したのが3月16日でした。16日の段階で川内村に残っていた方の中には、ビッグパレットふくしまに一斉に行った人もいれば、「お父さんは川内だけど、お母さんが違う市町村出身だから」と既に他の場所に行った子もいたので、「川内村全体でまとまって」ということではありません。ただ、16日の段階では、ほとんどの方が郡山の方に移動したと思います。私もしばらくは、若い先生方とビッグパレットふくしまで寝泊まりしていました。
幸い春休み中だったので、「学校はどうするんだ」という話にはその段階ではなりませんでしたが、やはり4月に近づくにつれて「学校再開はどうするんだ」という問い合わせは多くなりました。

――避難先のビッグパレットふくしまでは、具体的にどのような仕事をしていましたか?

渡邊本来ならば、春は来年度の引き継ぎや、小学校の書類を中学校に引き継ぐような作業をする時期なのですが、そもそも学校の中に立ち入ることができませんでした。そのため、事務的な作業は全く着手できませんでした。ただ、ビッグパレットふくしまには富岡町や川内村から避難したお子さん達がいたので、その子達のケアをするために1階に子ども達が集まれるスペースを作って勉強を見たり、いろんな企画をしたり。そういった協力はしていましたね。当時担任していた子達も、3分の1程がビッグパレットふくしまに来ていました。

村を離れての「学校再開」が子ども達に与えた、良い面・悪い面

――では、そこから学校再開に向けては、どのような動きがありましたか?

渡邊3月下旬頃には、校長や教頭、管理職が、教育委員会や村の幹部の方々と話をして、「学校としては、こうしていきたい」という主張をされたと思います。できる限り子ども達の学ぶ場は保障したいので、「川内ではないけれど、郡山やその近辺で学校再開ができないか」という訴えがあったようです。村や他の教育委員会との交渉などはすべて校長が行っていました。その後、様々な交渉を経て、4月12日、郡山市河内(こうず)小学校内で「川内小学校郡山校」を51名で再開しました。
その頃、私と子ども達は保護者の携帯電話を通じて話はしていましたが、なかなか子ども同士のネットワーク、連絡手段というものはなかったんです。だから、子ども達は友達と久しぶりに会えたことですごく嬉しそうでした。私自身も、また子ども達が集えたということが大きな喜びでした。

――その後、河内小学校での学校生活はおよそ1年間、2012年3月まで続きました。渡邊先生は、河内小学校でもクラス担任でしたか?

渡邊川内小学校5年生の担任でしたが、河内小学校の5年生も交流学習で一緒に学ぶ体制を整えてもらいました。河内小学校での学校生活は、子ども達にとって良かった面もありました。今までずっと単学級、同じメンバーで育っている子ども達でしたが、河内小学校に行ったことによって、河内小学校の5年生と出会うことができました。固定化された人間関係ではなく、新たな友達出会うことにより、多様性を受け入れる素地が育まれたのではないかと考えます。

――逆に、悪かった面もありますか?

渡邊子ども達が落ち着かない、という面です。環境の変化により夜眠れないという子どももいました。これまではおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に生活して、ある程度、生活の規律が保たれていたところもあったと思うんです。それが急に、地震がきっかけで核家族化もあった。中には、「若い世帯は違うアパートに」といった状況になった時、生活リズムが大きく変わってしまって。授業中、なかなか起きていられなくなった子ども達がいました。
 あとは、限りあるスクールバスの台数で、郡山市内を巡回するため、早い子は朝6時50分頃からバス停に集まる必要がありました。そうすると今までより30分以上早く集合しなくてはいけない。他にも、お仕事をなくされた家庭もあったので、ずっと家に親がいるという環境ができてしまった。それによって、今まで指摘されなかった細かいところまで親に指摘されることになって、子ども達にチック症状が出てしまったりする事例もありました。
 子どもにとっては、少し放っておいてほしいことまで大人が細かく見過ぎてしまうような状況になったこともありました。
 その部分は、学年の保護者会で状況をお話して、「ちょっと目をつぶって子どもに任せてあげてもいいです。ただ、親は最低限、子どもの健康や生命に関わる部分については、よく目をかけてください」とは伝えました。

――そういった子ども達の変化に気づいて、指導法を変えたり、接し方を変えたりしましたか?

渡邊ずっと気を付けてはいましたが、カウンセリングの意味も込めて、まずは子どもの話を聴くようにしました。授業でも、子ども達同士の交流・意見発表をしながら進めるような形式をとっていましたが、自分を表出する機会や、友達と触れ合う機会を意図的に設けるようにしました。
避難生活をしていると、家族としか交流がなかったり、狭いコミュニティの中に閉じ込められてしまいがちです。すると、子ども達の中にも「同年代の人と話したい」という欲求が増えてくるので、それを授業の中で解消してあげたいと思っていました。
ただ、私としてみれば目の前の子ども達も大事ですが、当時担任していて他の学校に行った子達も担任しているという気持ちは変わらなかったので、「この子が中学校に行って不登校になってるよ」とか、「あの子が中学校行ってトラブルがあるみたいだよ」なんて話を聞くと、そちらもやはり心配になっていたのは確かです。

――他の学校に行った子達とは、どのように連絡をして、つながりを維持していましたか?

渡邊学校側からは、お便りや電話連絡。それから、保護者が企画する定期的な交流会、村で企画する夏のイベントですね。この3つくらいは、交流する機会がありました。保護者からも、私がこうしましょうかと言う前に、「せっかくだからあの子達が一緒に集まる機会とか、卒業証書を皆でもらうような機会を作れないですかね」という提案があって、実現しましたしね。

――震災前には、子ども達と電話や手紙でやり取りする機会はあまりなかったと思います。どのような気持ちで、遠く離れた子ども達とやりとりをしていましたか?

渡邊震災直後の手紙は、なんとなく本当に、やらなければいけないという義務感よりは、「本当にその子の様子が知りたいから」とか、「仕事というよりは、あなたのことが心配で」とか、子ども達のことを知りたいという思いが強かった気がします。その後も、避難先で卒業する子ども達全員に祝電を送り、少しでも喜んでもらえればと思っていました。

川内小で目指したのは、「川内に戻ってきてよかったと思える子ども、川内の学校に通わせてよかったと思える保護者、川内の学校に勤めてよかったと思える教師」

――その後、川内村に戻られて、2012年4月6日に入学式が行われたのですね。

渡邊時期としては、2011年の4月に河内小学校に移転して1年。やっとそこで少し落ち着いてきたなという頃合いだったのですが、2012年3月に行政判断で、川内村に帰村することが決まりました。その時に保護者会も行われたのですが、「せっかく今落ち着いてんのに、この時期に戻さなくていいんじゃねえか」という声もありました。「せっかく郡山で、河内小学校っていう環境で勉強できるのに」って。それだけ子どもにとっても保護者によっても河内小学校の環境はありがたかったのだと思います。
 でも川内小学校郡山校は3月末日で終わりだから、川内に戻る子はそのまま川内に家族ごと戻る。一方、郡山で過ごす人は自分の住んでいる近くの学校に転校する。中には河内小学校に区域外で通う子もいました。そういった色んなパターンがあったのですが、私の担任していた子は3分の1ぐらい、7人が戻りました。
 ただ、7人のうち全員が郡山の河内小学校から来たかというと、そうではありません。河内小学校に通っていた子は4人です。2人はいわき市の学校、1人は県外の学校に通っていて、「川内に戻るんだったら」と言って戻ってきた子でした。
他の学年も同じようなことがあったので、結果的に60人近くいた郡山校の子ども達は16名が川内村に戻ってきて再開となりました。
私もその時に戻って、川内村の教員住宅に住み、今度は6年生の担任を受け持ちました。

――先ほどのお話にあった、学年便りの作成や、手紙や電話でのやり取りは、川内村に戻ってからも続けたのですか?

渡邊はい。川内村に戻ってからも、卒業するまでは定期的に行っていました。学年便りのパターンも何パターンかありましたね。例えば2012年度でいえば、川内村に通う子ども達向けの学年便りの他に、川内村には通わないけれども他の学校に通っている子ども達向けの学年便り。その時は川内村に通う子達も5、6年生で一緒にやることもあったので、「5、6年生用」と「6年生だけ用」というケースもありました。

――避難先にいる子達に送る学年便りは、何を伝えようと思って作ったのですか?

渡邊まずは、村がどんな状況かというのもありますが、多くはメッセージですね。「今できることをその学校でやるということが、大事なんだ」という話を書いたり。「次に集まるのがこの時期だから、この時までには皆で話せるように、情報を集めておいてね」という感じでした。
「川内に戻ってきたことがいいんだよ」ではなくて、「こういうことをやっているよ。でも皆は皆で、今通っている学校で今やっていることに価値があるわけだから、そこはあなたも頑張ってね」というメッセージを込めました。

――では、川内に戻ってきた子達、渡邊先生のそばにいる子ども達に対してはどういうメッセージを?

渡邊目の前にいる分、そこはもっと具体的なメッセージを伝えました。日常的な保護者との関わりや、学校ではこういったことを企画していますといった特色ある教育活動や、日々の連絡事項などですね。
 川内村に戻った時、高島仁校長に言われたのは、「川内に戻ってきた子達にも、絶対に後悔させちゃだめだよね」ということです。今でも覚えているのが、「川内に戻ってきてよかったと思える子ども、川内の学校に通わせてよかったと思える保護者、川内の学校に勤めてよかったと思える教師。この三つを頭に入れてやっていきましょう」と言われたんですよ。
 学年便りでは、「今日はこの子特集」というのもやりましたね。この子は今こういうことに興味を持っていて、今こういうことをやっている。それはこんな価値があることなんですよと、教育的な視点で書いたり。そうすると親としても、きちんと一人ひとりを見てもらえていると感じることができる。別の学校ではうまくいかなかったという子どもも、「川内村に戻ってきて、将来につながるようなことができている」って思ってもらえたらなという気持ちでした。

――震災前後を川内小学校で過ごされた先生としては、「震災があったことによって、地域の人達の学校を見る目が変わった」と思いますか?

渡邊もともと川内村は、保護者や地域住民が学校に対して協力してくれる風土がありました。ただ、主体性は大きく変わった気がします。「保護者もこれだけしかいないわけだから、協力しなくちゃいけねえべ」と。今までは百何人もいたので、どうしても埋もれてしまう保護者もいましたが、川内に戻った子どもが16人いた中、その保護者全員から「何とかしようぜ」という気概を感じましたよね。

子ども達一人ひとりの背景を考えた経験が、現在にも生きている

――ここからは、先生ご自身のことを伺います。震災があったことで、ご自身の教員生活や考え方にどのような影響があったと思われますか。

渡邊原子力災害により通常の教育計画が通用しないような状況になったので、そういう時でも「目の前の子ども達の実態を据え、教職員が目標を共有し、計画を再考する。それが教員の仕事だ」と考えるようになりました。「そもそも計画ありき」の仕事から「子どもありき」に変わったと言いますか。「子ども達がこうだから、こうなってほしいから、この活動をやっている」ということを常に意識するようになったと思います。

――その気づきは、今現在、学校現場からは離れて教育委員会勤務となっても、仕事面で影響を受けていますか?

渡邊受けていますね。あまり大きな声で言えないですけれど、「今やってるこの活動って、何のためにやってんですか」って、先生方にいじわるで言っちゃう時があるんですけれど(笑)。たとえば、生活科の学習で震災前は結構、砂遊びをしていたのですが、今はほとんどしていないんです。「じゃあなんでこの生活科カリキュラムに砂場遊びはないんですかね」と聞いたら、原発事故による放射線の影響だろうと。でも実際、ここの状況はどうか。測っても数値が出ていない。だったら、どうした方がいいんですかね?なんて話はありました。こんな風に、今でも学校でやる一つひとつに対して、「何のためにやってんのかな」という意識は、間違いなく持つようになりました。

――そういった意味でも、震災という経験は、良い意味でも悪い意味でも大きな影響を持っていたと思います。当時の教員生活・教員業務で、今まではありえなかったようなことや、何か印象的に覚えている経験はありますか?

渡邊ありえなかったことといえば、避難所運営ですよね。その避難所運営ですが、一緒に避難所を運営していた役場の人達は同じ公務員ですけれど、「本当に生きるか死ぬかって時の住民のために、この人達は仕事しているんだな」ということを、強く実感しました。ビッグパレットにいる時も行政の方と関わる機会あって、同年代の職員を見て、やっぱりそういう気概を持ってやっているんだなと感じました。そこで「じゃあ自分は教育現場で、どんな気概を持ってやれるかな」というのは、考えさせられた気がします。
 その経験や気付きがあって、子ども達一人ひとりの背景や生い立ちはすごく考えるようになりました。「○○さんは今どんなことに困っているのだろう」「○○くんは今どんな思いや願いを持っているのだろう」ということを考えて、教育活動を創るんです。震災で子ども達がいろんな状況に追い込まれて、この子がどんなことを思っているのかなと考えた経験が今、一人ひとりの子どもを見るということにもつながっている気はします。

――そういう視点は、震災に関係なく、これからの学校現場でも必要になりそうですね。

渡邊必要ですね。我々の下の世代で生産人口が少なくなっているから、多くの特性を持っている子もどんどん活躍できるような社会であってほしいと願っています。いろんな特徴があったり、心の不安を持っている子に教師が寄り添いながら、誰もが活躍できるような学校にならなくちゃいけないと思っています。

――では、ご自身の震災で得た経験から、次世代の教員に対して何を伝えたいですか?

渡邊「学校は子ども達がいないと成り立たない」ということ、「そもそも今やっている教育が、子ども達一人ひとりのためにある」ということ。これらは、私自身も見失わないようにしたいなと思います。国や県から多くの方針が出される昨今の状況において、そもそもそれをどうして行う必要があるのか、行うことで子どもにどんなメリットがあるのか、という視点は、忘れないようにした方がいいと思います。
そして、川内村の学校は今、継続・再開していますが、継続する上でも学校だけではどうしようもなかった問題もありました。やはり村や地域の住民、保護者とうまく連携しそれぞれの立場の「声」に耳を傾けながら「学校」を運営していくということが、すごく大事になってくるのかなと思いますね。

――最後の質問になりますが、学校や自治体という組織の記録ではなく、今回のように先生個人の証言が記録として残るということに、どのような意味があるとお考えですか?

渡邊すごく価値があると思います。震災に限らず、「先生がこうやって一人前の先生になりました」のような教育書は少ないんですよ。先生がこういう経験をして、こういう先生になりましたというのも無い。「今こうやって、すごい実践をしています」という教育書は多いのですが、「そもそも自分が知りたいのは、こういう先生になるために、この先生はどういう経験をされて、どういう試行錯誤をして生きているのか」という部分であって。そういう本は、なかなかないんです。でも、先生達もいいところは明かしますが、語りたくないところは出さないですよね。失敗したことや、うまくいかなかったことも、こういう場所に残してもらえたらいいなと思います。
 今、双葉郡に勤務されている先生方には、そういった背景がなかなか伝わらずに過ごされている方もいると思うので、多くの先輩達がどんなことで悩み、何を考え、どんな教育活動を創造したのかを知るのは、すごく意味があることだと思います。多くを語らずに退職された先生方もいらっしゃるので、記録を残していただけることは、私を含めた中堅、若手の先生方にとっても、ありがたいと思います。

インタビュー:2021 年 7月21日 (聞き手/久保田彩乃、千葉偉才也)

一覧に戻る