小野 美佳子さん
おの みかこ
双葉町出身、中学校教諭。教科は音楽。2011年3月の震災発生時は富岡町立富岡第一中学校に勤務。2021年度インタビュー時、広野町立広野中学校勤務。特技は茶道と書道。
小野美佳子先生は震災時、富岡第一中学校3年生の副担任でした。津波から逃げるよう指示を受けた後、他の先生達と一緒に、近隣の幼稚園の子ども達の手を引いて丘へ避難。その後、家族と合流できた先生は、入院中の父親といわきで再会を果たします。私生活も落ち着かない中、三春町の桜中学校での兼務も始まりましたが、それも1週間程で終了。そこには兼務として勤める側、受け入れる側の難しさがありました。仮設校舎・三春校の再開にあたっては、あの時が一番充実していたと振り返る先生に、少人数教育の難しさについても、語っていただきました。
家族とともに避難を重ね、三春からいわき、那須、宇都宮へ
――まずは2011年3月11日に所属していた学校と、当日何をしていたかについて教えてください。
小野当時は富岡第一中学校で3年生の副担任をしていて、音楽と家庭科を教えていました。地震が起きたのは、卒業式が終わって、職員室で昼食を食べ終えた時でした。本当は、その日の午後3時半頃には帰りたかったのですが、地震が起きてそういう状況ではなくなってしまいました。
地震が起きてしばらくは、机の下に潜っていました。揺れが大きく、本などがものすごく散乱しました。
揺れがおさまった時に、とりあえず校庭に避難しました。地震前から野球部が校庭で練習をしていました。その中にラジオを持っている生徒がいて「今の地震は震度6強みたいです」と話していました。校舎に戻った直後、教育委員会から電話が来て、「津波が来るかもしれない。中学校の隣にある幼稚園の子ども達がまだ残っているから、その子ども達を連れて、近くにある高台に避難するように」と言われました。それで、幼稚園の子ども達の手を一人ずつ引いて、高台に避難しました。
――高台に幼稚園の子達と一緒に避難をして、その後、実際に津波が来たのですね。
小野海がきらきらと光りました。「津波が来る」と思っていたら、第1波が来ました。第1波は、大きな波という感じではなかったのですが、町の中まで波が押し寄せてきました。普通に散歩しているおじいちゃんがいて、丘の方から「早く逃げて!」と、皆で声を掛けたのを覚えています。
幼稚園の子ども達の中には「怖いよ怖いよ」と泣いてしまう子もいて、先生が「大丈夫だよ」声をかけながら、津波が見えない場所に子ども達を連れて行っていました。
――その後、先生はどういう行動をしましたか?
小野第1波が来て、それから第2波も来ました。富岡川の上流の方に津波が上ってくるのも見えて、皆でびっくりしていました。雪も降ってきて、声も出ないという感じでした。そんな中、中学校から、「先生方、戻ってきてください」という教頭の放送があって校舎に戻りました。津波は学校まではきていませんでしたが、学校の100メートル近くまで水に濡れていました。
校舎に戻った後は、学校が避難所になるということで、その準備を始めました。北校舎の3階に避難所を作ろうということだったので、水を運んだり毛布を運んだりして、避難所を作りました。そして、職員室を掃除していた時、小名浜から来ている先生が「帰りたい」、「自宅が心配だ」と言っていました。それで、「校長先生、この後どうするか指示してください」と、私が一人で校長に直談判に行きました。私も自宅に母がいて、いわき市の病院に入院中の父のことも心配でしたので、「早く帰してくれ」と。そして、校長から、「自宅が心配な人、それから沿岸部に住んでいる人は、もう帰っていいです。地元の人だけ残ってください」と言われました。それで、すぐに車に乗って学校を出ました。夕方4時を少し過ぎた頃でした。
学校から自宅に向かう途中、ある女子生徒の家の前で信号待ちをしていたら、「小野先生」と声を掛けられたのです。驚きましたが「大丈夫?」と聞いたら、「大丈夫です」と笑顔で私の方に寄ってきてくれました。車の中と外とで話をしているときに、ふとその子の後ろを見たら、家の中はひどい様子でした。まるで、戦争の後のような感じで、その子の笑顔だけが今でも印象に残っています。その子と別れた後に双葉町の自宅へ向かいましたが、普段は20分の帰路に、4、5時間はかかりました。帰宅したのは夜の9時頃でした。
――かなりの遠回りを余儀なくされたのでしょうか?
小野途中の国道が、大熊町の原発の入口付近ですでに閉鎖されていました。それで、大熊町から双葉町に続く旧国道と呼ばれる道路を通っていったのですが、全く動きませんでした。その間も余震が頻繁に続いていましたし、これはもういつ着くか分からないなと思いましたので、今度は旧国道から双葉町細谷の工業団地前を通って、海側の方に続く道に行きました。そちらの道は途中、地割れで半分通れないような所もあったのですが、何とかそこから双葉町役場の方に出ることができて、ようやく自宅にたどり着きました。
ただ、自宅にはたどり着きましたが、町は停電で真っ暗でした。そして、地震のせいで家の玄関のドアが開かなくなっていました。一階の窓も、どこも鍵が開かなくて。家の中で飼っていた犬がワンワン吠えていました。それから、母親の姿が見えなかったので、どこかに避難したのだろうと思い、とりあえず双葉町役場に行きました。役場では近所の知り合いの方も避難してきていました。ちょうど町長が会議で来ていた人たちをどのように帰すかという話をしていました。そんな様子を見ていたら、そこに自衛隊の方がいらっしゃいました。
――その日のうちに、自衛隊が到着していたのですね。
小野そうです。もうすでに自衛隊の方がいらっしゃって、すがるように、「実は家のドアが開かなくて困っています。どうにかなりませんか。」とお願いしましたら、快諾していただき、5、6人の方に来ていただいて、2階へ登ってたまたま鍵がかかっていなかった窓から家の中に入っていただきました。それで家の中から、犬と、必要な物を出してもらいました。後から聞いたら、自衛隊の郡山駐屯地の方だったそうで、とても感謝しています。「犬は苦手なんです」と言いながらも対応してくれて本当にありがたいと思いました。その後は、母を探して、双葉町役場、双葉中学校、双葉北小学校、それから厚生病院の近くのヘルスケアなど、色々な場所に行きました。結局、母は避難所をめぐりめぐって双中にいましたので、そこで会えました。余震が続いていたので、その日の夜は双葉中学校の校舎や車の中で過ごしました。
――中学校の体育館は、満員だったのですか?
小野いえ。体育館ではなく、避難されてきた人は校舎にいらっしゃいました。翌朝7時頃には、「皆さん、校舎内に避難してください」という校内放送がありました。その時には、既に防護服を着た人が6、7人、中学校に来ていました。そしてそこから30分もしない間に、「原発が危ないので、西の方に避難してください。ここにいらっしゃる方は、三春方面に行ってください」と言われました。それでいち早く、私は自分の車で三春方面に出発しました。
三春に行くまでは国道288号線を通って行きましたが、大熊町と都路村の境辺りにすでにバスが十数台も待機していました。きっとそのバスで大熊町の人達は一斉に避難をしたのだと思います。双葉町は避難所ごとに行き先は別だったみたいです。
――先生が三春に着いたのは、何時頃でしたか?
小野大体、午前10時頃でした。途中、案内の人から三春町交流館に避難してくださいとのことでしたので、そこを目指して行ったのですが、まだそんなに人も到着していない状態でした。テレビのニュースでは「原発が危ないです」「3キロ圏内の人は避難してください」「5キロ圏内の人は避難してください」というような話が出ていた頃でした。
その交流館で、偶然にも、教え子のお父さんで東電関係の仕事をしている方に会いました。第1回目の爆発はお昼前だったような気がしますが、テレビで爆発したのを見て、「これはまずい。トリチウムが出たら大変だ」と言っていました。それで、「ここは、大丈夫ですかね」と聞いたら、「風が福島方面の方に吹いているから、多分三春は大丈夫だろう」と言ったので、少し安心しました。その間に買い出しに行ったり、少し休んだりしながら、偶然にも教え子達にも会って、「大丈夫だった?」と無事を確認し合いました。
結局、三春にはその翌日の13日までしかいませんでした。いわきの病院に入院している父親が心配だったので、その日の朝に郡山市に出て、国道49号線を通りいわき市に向かいました。
父が入院しているいわき市立共立病院に着いた時には、面会が制限されていたのですが、1家族2名まで面会可能ということで父親に会うことができました。その後は父の妹である叔母の家に、2、3日程お世話になりました。ところが、2回目の爆発があり、いとこも心配し始めて、14日か15日には「もうここにはいられない」という話になり、最終的には栃木県の那須市に避難しました。那須では2日間、旅館に泊まっていましたが、その旅館にもいわきの人達が避難してくるようになりました。
一方、入院していた父親は、「歩ける人は退院してください」と言われ、病院から宛名のない紹介状を渡され途方に暮れていましたが、運よく私の弟が住んでいる静岡県のがんセンターで受け入れてもらうことになりました。病院近くに住んでいた叔父に車で父親を那須まで送ってもらい、15日頃には新幹線も那須から通るようになったので、父親と母親は新幹線で那須塩原駅から静岡に向かいました。私は叔母達と宇都宮のアパートを借りることになりました。
私生活の建て直しで精一杯な中、学校再開へ
――避難している間は、学校とは連絡を取っていましたか?
小野いえ。その時は、取れなかったのです。そのため「小野先生は死んだんじゃないか」という噂になったようです。実は地震前にちょうど携帯電話からスマホに変えたばかりだったのですが、当時スマホの電源がなかなか手に入らず大変でした。携帯電話の電源は、結構どこの避難所に行ってもあったのですが、スマホの電源を見つけるまでには3日くらいかかりました。結局、大田原市のドコモショップまで行ってやっと充電できました。そしてようやく学校にも連絡できました。それまで、自分のことで精一杯でした。
――では年度内は、そういった形で避難をしながら、ご自身の生活を整えることを優先していったということですね。
小野父親の入院、手術などもありましたので、申し訳ないですけれども私は家族の事を優先させてもらい、宇都宮を出て、神奈川県相模原市の叔母の家に1週間、その後静岡県沼津市の市営住宅に避難し父親の手術が終わるまで過ごしました。
校長から「戻ってきてください」、「富岡一中の先生方は、郡山市の安積行政センターに集まってください」と連絡が来たのが、3月29日だったかと思います。その際に「この学校に行くように」という指示があって、他の学校に「兼務」しました。私は三春町にあった桜中学校に行きましたが、そこには富岡一中、二中合わせて10人ほどの教員が兼務しました。桜中学校では、「何をしてもらっていいか分からない」というぐらい突然のことだったと思います。結局は1週間程しかそこには勤務せず、私は安積行政センターに戻りました。行政センターでの仕事は、生徒の転学や指導要録、教科書関係の書類を送付したり、卒業生が確実に進学したか確認したりする作業を行いました。
――その安積行政センターでは、いま残っている富岡の子ども達の教育をどうするかという話も、出始めていたのですか?
小野出ていました。双葉郡の中でも、早い学校は4月に再開しましたし、他の学校も徐々にそういう状況になっていましたから。これからどうするかを決めるから、先生方に集まってほしいと言われ、「学校を再開した方がいいか、しない方がいいのか」ということを、教育長から私達も聞かれました。正直なところ、私としては自分の心の状況がこんな状況でしたので、「もう少し落ち着いてからにしてほしい」と思っていました。でも、子どもがいなかったら町が復興しないということで、学校は早急に立ち上げることに決まりました。
――徐々に、仮校舎なり仮設校舎に向けての話が、安積の行政センター内で始まったということですね。
小野はい。場所を探していたのは教育委員会の方でしたが、最終的に三春校舎に決まったのは、6月頃だったと思います。
私のように行政センターに戻って学校の事務的なことをする人もいました。そこでは、私は9月の学校再開に向けて、7月頃から意向調査というか、「戻ってきますか、戻りませんか」という手紙を、生徒達に送ったりしていました。
――三春町で開校することが決まった時の先生方の反応はどうでしたか?
小野実際に現場を見てここでやるの?というのぐらい建物が震災後そのままの状態でした。その場所は葛尾村も候補としてあげていたらしいです。結果的には、別の場所にした葛尾中学校の方が良かったのかもしれません。旧要田中学校はとてもきれいでしたから。「7月に改修工事をやります」という話でしたが、「改修工事をやったところでどうなることか」というくらい、本当に酷い状態でした。
――そのような中で、先生方で手分けしながら、子ども達を迎え入れる準備をしたのですね。
小野そうですね。文科省のポータルサイトなどから色々なNPO法人を検索したりして、支援のお願いの連絡をし続けていました。その結果、色々な方から色々な物を支援していただきました。
――そうした準備を終えて開校する時、子ども達が初めて三春校舎に来た時は、先生はどんな印象でしたか?
小野正直なところ、戻ってきた人数はそんなに多くなかったので、「これぐらいしか戻ってこなかったのか」という気持ちがありました。まして卒業した学年の副担任だったので、「戻ってきてくれて、ありがとう」というのは、私としては、そんなにはなかったです。
三春校が開校した時は、私は1学年の主任でした。1学年では、富岡一中の生徒は11人、富岡二中の生徒は4人ほどでした。担任は持ちませんでしたが、富岡二中の子達にも教えるというのがすごく新鮮でした。初めてのことばかりでしたから、今思うと大変だったし、すごく戸惑うこともありましたが、あの時期は結構充実していたような気がします。
――2011年度が終わった時には、ほっとしましたか?
小野ほっとするというのはなかったです。結局、あの校舎で「またこの先どうなるのかな」ということしか考えられなかったです。色々な不具合があって、給食がないという状態もあったし、不便なことばかりでしたから。
でも、そんな中でも一中だけではなくて二中の先生もいらっしゃったし、和気あいあいとしていました。かなり飲み会にも行きましたね(笑)。先生方は皆、仕事に関しては向かう方向が同じでしたし、本当に必死でしたから、色々な場面で意見を言い合ったりして「いや、こうじゃないでしょ」、「ああでしょ」みたいな感じもありましたが、振り返ってみれば、その時が一番充実していたなと思います。
――2012年度には、何か印象的なことはありましたか?
小野2012年度は、持ち上がりで2学年主任を担当しました。4月下ごろにドイツから招待があって、夏休みにドイツへ3週間くらい行く機会がありました。なぜその招待があったのかというと、放射能に汚染されているであろう土地の子ども達が、被爆を避けられるようにといった理由のようでした。それで双葉郡の学校に声が掛かったそうで、最終的に富岡町で引き受けたようです。2学年と3学年の希望者約20名と引率教諭5名で行きました。他の町も、色々な国から招待を受けていたみたいです。それで外国に行った学校は多かったです。視野を広げて、子ども達も考えるものがあればいいのかなと思いました。
その後、私達がドイツに行った時にお世話してくれたボランティアの学生の人達が日本に来て、富岡の学校を訪問してくれたこともありました。
少人数教育は「お互いがお互いを育てること」が難しい
――最初の2年間で、避難している子ども達と向き合ったり、つながりを作っていくにあたって、何か意識したことや気を付けたことはありますか?
小野今もそうですが、基本的には「その子のことを、よく知る」ということでしょうか。やはり子どもによって、特質などそれぞれ持っているものが違います。抱えている悩みや考えていることも違います。特に、三春校に戻ってきた子達は、転学先で失敗しているというところが、一番大きかったです。避難先で嫌な目に遭ったとか。だから、そういったことをよく考えて接するということをスタンスとして指導を続けてきました。
――震災前に比べ、先生の意識の中で、その部分はかなり強まったということですか?
小野そうですね。やはり、大きな集団を指導するのと、三春に来ている十数人の子ども達を指導するのは違いますから震災前と指導は変わったと思います。一人ひとりがもっとよく見えてくるので、「こういう風にした方がいいのに」、「このように接してあげたほうがいいのかな」と考えることはありました。
――それは、小野先生の教員としての変化という部分でも、震災・原発事故の前後で、大きく変わったということでしょうか?
小野もともと生徒一人ひとりにあった指導をすることを心がけていたのは変わりませんでしたが、三春校では、そこに難しさがありました。一人ひとりの抱えているものが大きかったというか。
また、「少人数は指導しやすい」と言われますが、少人数であることの弊害も大きかったように思います。子ども達の中で「お互いがお互いを育てる」ということが少人数ではなかなか難しいのです。人数が少なくなればなるほど人間関係が固定化され、視野が狭くなるし、先生との距離が近くなって、私達も見なくてもいいものを見てしまう部分が出てきます。そして余計に、抱えるものが教員としても多くなってしまう。あれもこれもやらなければならないし、あれもこれもやってあげなければならないと考えがちになってしまいます。だから、そういった子達の指導の在り方というのが、自分の中ですごく変わったと思います。
――少人数だと、家族の話も含めた色々な部分を全て、先生達が把握してしまいますね。また、受け止める側である先生方の中にも、受けとめ過ぎて重くなってしまう方もいたのではないかと思います。少人数教育は難しいですよね。
小野そうですね。そして、やはり「先生と合わない」という子も出てくるわけです。そうすると、子ども達には逃げ場がなくなります。30人ぐらいいれば教師とうまく関わらなければいいのですが、5、6人だと逃げられないところがあります。うまくいけばいいけれど、うまくいかなかった時はがんじがらめになって、逃げていくしかない部分があるかなと思います。そして、仮設校舎で勉強するということについても、あくまでも仮設なのでやはりきちんとした環境を整えてあげることが必要だと思います。その町の学校で学びたければ、町が早く帰還して学校を建てるしかないと思います
――これから先、震災の経験がない先生が増えてきます。そういう方々に、小野先生達のご経験をつないでいくのか、つないでいくべきでないのか。その辺りについては、どう考えていますか?
小野あまり過去にとらわれていても仕方ないのかなと思いますし、地球温暖化なども考えると、災害はこれからもっと増えてくると思います。でも、震災前であろうが、仮設であろうが、今勤めている広野中学校であろうが、教育は人を育てることですし、環境が違っても、子ども達の本質はずっと変わりません。その子どもにあった接し方や指導方法を考えていってあげればいい。学校に来るまでは子ども達は白いキャンバスのままで、そこに色を付けてあげるのが教員の仕事です。その子の人生に関われることができるのが教員だと思います。
でも、今回の震災を通して私達がやってきたことは、やはり、つないでいった方がいいのかなとは思います。「昔のこと」では、終わらせられません。
インタビュー:2022年1月6日(聞き手/千葉偉才也)
