鈴木 隆さん
すずき たかし
いわき市出身、中学校教諭。2011年3月の震災発生時はいわき市立小名浜中学校勤務。その後、教頭として会津若松市に避難をしていた大熊中学校に着任。
2011年3月の震災時、いわき市立小名浜第一中学校に勤務していた鈴木隆先生。同年8月からは、会津若松市へ集団避難していた大熊中学校の新任の教頭になりました。会津若松では仮設校舎の建設に向けて多忙な日々を送りながら、地域の人々に何度も助けられたといいます。長く支援を受け続ける立場にいて、「支援慣れ」をしている子ども達の姿を間近で見てきた日々もあり、「何もない、通常の教育活動をさせてほしい」と願い続けてきた先生。大熊中が閉校になる春、この10年の思いを語っていただきました。
異例のスピードで学校が再開できたのは、「子どもは町の宝」という考えがあったから
ーー鈴木先生は2011年3月当時はいわき市立小名浜一中勤務でしたが、同年8月1日からは大熊中の教頭をされていますね。大熊中は、大熊町の会津若松市への集団避難に伴って、会津若松市で仮校舎として教育活動を継続しました。まずは、その頃のお話を聞かせてください。
鈴木 お世辞抜きで思うのですが、「大熊町の大熊中」と「会津若松に避難した大熊中」の教頭になれたことは、私にとってとても幸せなことでした。なぜなら、「えっ」と思うことがたくさんあったからです。
本当は、2011年3月の半ば頃、「双葉郡の葛尾中学校の教頭になるよ」と言われていたのですが、震災によって4月1日に行われるはずの人事が8月1日に遅れることになり、がらっと変わって8月からは大熊中に初任の教頭として勤務することになりました。
もともとの大熊町の大熊中は、全校生徒が320人ぐらいだったと思います。それが原発事故の影響で町ぐるみの避難となったのですが、町ぐるみだったので、避難先の中学校だったにも関わらず、全校生徒は225人いました。一方、双葉郡でも避難した町村は沢山ありましたが、皆ばらばらに避難していましたので、当時浜通りにあった浪江中は一番人数が多かったと思いますけれど、数十人ぐらいだったと思います。
ーー避難先の会津若松市で教育活動が再開できたのは、いつ頃だったのでしょうか?
鈴木 私の着任前の話になりますが、4月16日頃だったと思います。これは、まずあり得ないぐらいのスピードです。
ーーなぜそのようなスピードで再開できたのでしょうか?
鈴木 大熊町の町長や教育長はいつも、「子どもは町の宝だから」と言っていました。そういう考えがあったからでしょう。
当時の大熊中は元高校校舎の2階を使用していて、その1階部分には大熊町役場が設置されていたのですが、町長とはよくお話しする機会がありました。たまたま町長のいとこが私の知り合いだったという縁もあって、とてもフレンドリーに接してもらいました。何度も話しているうちに、「この人達は避難して、自分達も着の身着のままで大変なはずなのに。それなのに、まず分散して町がなくなるのを心配して、まとまることを優先して。これだけのことをやっているのはすごいな」といつも感心していました。周りの町村が散り散りになってしまった状態から考えると、大熊だけがすごかったように思います。
ーー大熊中の生徒数はどのくらいで、どんな様子でしたか?
鈴木 私が着任した頃はたぶん200人前後だったと思います。その後、徐々に生徒数は減ってしまいましたが、私がいた期間は170~180人くらいは在籍していたような気がします。避難先での学校生活でしたが、子ども達は順応性があって、会津若松の生活も楽しんでいるように見えました。私も、色々な気付きや刺激があって面白かったです。
私が着任したときは8月でしたので、皆がTシャツ・短パンとか、そのような私服を着ていました。それはなぜか。「家から制服もジャージも持って来ていないから、支援物資の中でサイズ合うものを着ているため」です。その年度の3学期頃だったでしょうか。制服を買ったり、一回家に戻って持ってきたりしたことで、制服も着始めたような気がします。
ーー200人がいる環境はすごいですね。1階部分の役場からしたら、すごく賑やかだったと思います。
鈴木 でも、文句も全く言われたことがなかったし、町の方々には本当に、子ども達のことを大事にしていただきました。1階に行って役場の方や町の方と話しているうちに、だんだん馴染みになったりして、気にかけてもらいました。
そういえばある時、1階に行ったら、教育委員会にクレームを付けてるおばちゃんを見かけたんです。話を聞いていると、小学校か中学校の文句を言っているようでした。それで、その姿をよく見たら、小野浜一中の生徒のお母さんで。私の知り合いだったんですよ。「なんだ、あなたここに居たのか」って。もともとその方は大熊出身みたいで、ここに避難してきているようでした。それで、「そんな文句なんか言わねえで、少し避難先なんでやってくことねえべ」というようなことを話した記憶があります。
ーー先生ご自身も、8月の人事によって勤務先が大熊中になったことで、会津若松に引っ越すことになったのですよね。住まいは、すぐに決められましたか?
鈴木 葛尾中に行く予定だった頃、震災前の話ですが、当時の葛尾中の校長先生が「住む場所がないなら教員アパートでいいか」と、わざわざお電話をくださったことがありました。その時には「もちろんです、行った時にはよろしくお願いします」と話していたのですが、そのあと震災が起きてしまって。ところが、7月の半ばに「8月から会津若松の大熊中に行く」と決まってから、また葛尾中の校長先生が電話をくださったんです。
「自分はいま会津若松にいて会津若松のアパートを借りて住んでいるんだけれど、今度異動になるから、ここにそっくり入ったらどうか。今はアパートもなかなか見つからないから」と声をかけてくださって。ありがたいご縁でしたが、その校長先生は葛尾中で現職のまま、半年か1年後に亡くなりました。
ーー別の先生へのインタビューでも、この頃に2名の先生が亡くなられていることをお聞きしました。大変な時期だったと振り返っておられました。
鈴木 校長先生は私と一度も会ったことないのに気に掛けてくださって、2回も連絡をくださいました。当時、会津若松市内では仮設住宅が足りていない状況だったので、アパートは避難している人達でごった返しで、私が探せるような状況ではなかったんです。先生のお声がけがなかったら、私は住むところもなかったですね。
ーー役場や学校の外でも、近隣の方との付き合いはあったのでしょうか?
鈴木 交流はありました。今でも「感謝しかない」と思うのは、大熊町の人々の温かさと、教育や子ども等に対しての思い。そして行った先の会津若松市民の人々の優しさと温かさです。
例えば、10月頃に行われる会津まつりという大々的なまつりの2日目に、総勢5〜600人が武者姿で練り歩く「会津藩公行列」という見所があるんですけれど、当時はたしか大河ドラマ「八重の桜」の影響で綾瀬はるかさんや堀内孝雄さんがいらっしゃいました。その会津藩公行列に、大熊中の生徒も出させていただいたんです。
会津若松市内には1中、2中、3中、4中、5中、6中まであるし、周辺には他の中学もあります。だから地元の人だって、数年に一回しか行列に出られないんです。それなのに、避難した年に「避難してきて大変なんだから、ぜひ出てください」って言っていただきました。
それからこの時に、ものすごい「縁」を感じたエピソードがあります。この時、「大熊中の生徒も会津藩公行列に出てください」とお話を持ってきてくれたのが会津若松市役所の観光課の人だったのですが、実は私の元・教え子でした。私が最初に教員になって赴任した喜多方一中で、3年生を担任した時の男の子です。「なんで、おめえ、ここにいんだよ」って聞いたら、「今、会津若松の市民なんです」って言うんで、「おめえ、喜多方捨てて、会津若松に来たのか、この(笑)」、「僕は、次男だから大丈夫なんです」とか言ったりしてね。
その後、交流があって、よりわがままを言わせてもらったり、いろいろ観光関係の話を持ってきてくれたりしました。私の方から「よこせ」と言ったこともあります(笑)。それから、当時の教え子の中で会津に近い人を集めてくれたので、何度も酒を飲んだりしました。
「ため息ばかり吐いているよりは、前向きに」
ーーさて、震災から2年が経過した頃、元高校校舎の2階から別の仮設校舎へと、本格的に教育の場を移していますね。
鈴木 私は大熊中に1年8ヶ月いたのですが、赴任して2年目の時に、校長先生と教頭の私が中心となって会津短大の脇に「仮設プレハブ校舎」を建てる計画を進めていきました。そうしたら、仮設校舎をつくる会社の人に「こんなにでかい仮設校舎は見たことない」と言われました(笑)。それだけ町が国や義援金などの支援を受けていたということなのでしょうけれど、とにかく子どもに金をかけるのを惜しみませんでした。校舎が出来上がって1週間もしないうち、2013年3月31日に私はそこを離れてしまったので、実際にその校舎を使った教育は見ていないんですけれどね。
ーー当時の福島県内の学校には、頻繁にマスコミが出入りしていたような印象があります。常時、テレビ局や新聞社の人が誰かがいるような状況だったのでしょうか?
鈴木 私が行った1年8カ月については、そういう記憶はありません。通常の教育活動をやっていました。取材したい時には事前に連絡が来て、何日の何時に来てもらって……という形でした。
ーー大熊中での時間はかなり濃密で大変だったかと思いますが、先ほど先生は「大熊中の教頭になれたことは幸せだった」とおっしゃっていました。どのような思いで勤務されていたのでしょうか?
鈴木 不謹慎な言い方かもしれませんが、純粋に楽しかったです。皆が避難先で苦労しているけれども、「そこに勤めなくてはいけない」という時に、「ため息ばかり吐いているよりは前向きに」と思っていました。子ども達が前向きなのでね。「この子達がより楽しく・より良くなるために何やれっか」みたいな考えで前向きに捉えて、楽しんでやっていました。
ーーいろいろな先生方にインタビューをしてると、ネガティブな発言よりも、「ゼロから何かをつくる」とか「今までにないことをやってやるんだ」とか「この工場を学校にするんだ」とか、鈴木先生のように高揚感が垣間見えるような発言が多かったです。
鈴木 高揚感といえば、大熊中は200人くらいの生徒がいるから、小中合同運動会なんていうのも大々的にやってすごい迫力でしたよ。鳥肌立つぐらい感動してしまうほど、子ども達は一生懸命やりますし。
それに、周辺の学校の皆さんにも本当にお世話になりました。すぐ近くに若松二中があって、何かの機材が足りない時は貸してもらったり。校庭が使えなかった時は部活をするのにグラウンドやコートを一部融通してもらったり。若松市民よりも優先的にいろいろ使わせてもらったようなイメージすらあります。
“支援慣れ”してしまうことの怖さ
ーー大熊中での1年8カ月は、最初の時期と最後とではまた全く違う環境でした。子ども達と接する上で、何か気をつけていたことはありますか?
鈴木 たとえば震災によって世界中から支援物資が届き続けたことで、実際に大変な中ではありがたいことなのですが、ある意味で子ども達が「支援慣れ」してしまったことがあったように思います。子ども達は素直なので、「今回の支援物資でカレーをもらいました」といったところで、「えぇー」「なんだー」いう声が上がったりね。
そういう声が上がってきたから私は頭に来て、校内放送で「避難している皆を支援するために、心を込めて身銭を切って、いろんな人が送ってくれたものです。そういうものに対しては、受け取るあなた方は感謝しかないんだよ」と。それ以外のことを言うのはお門違いだし、そういう気持ちでは駄目だよと話したことがあります。ちなみに当時、その放送のやりとりを生徒が作文に書いて賞を取ったのか、当時の福島県版の「道徳」の教科書に載りました。自分でびっくりしました。「これ、俺のことじゃん」と思いましたよ(笑)。
ーーただ、支援慣れもどこでもあることでしたし、普通に好き嫌いもありますし、子どもですからリアクションが面白いところもありますね。
鈴木 面白いです。純粋に「そのリアクションができる状態にあった」というのはよかったかもしれないです。でも、さっきみたいな話の部分は、確かに大人がある程度の指導というか、「ちょっとそれ違うんじゃない」という突っ込みを入れてあげないと分からない部分はありますよね。
だって、子どもらは純粋だから「会津に避難して大変だよな」って話し掛けられたりしたときに、ペロって言って笑っちゃったりしたら、「なんだよ、大変じゃねえのか」ってなりますよね。結局、補償金を1人月10万円とかもらっちゃっているから、親は親で、今までの月給よりも高くもらっているようなケースもあったでしょう。5人家族だと50万円、とかの話ですから。
ーー教頭職で1年8カ月勤めて感じた、教頭職の難しさは何かありましたか? 管理職は大熊中が初めてでしたよね。
鈴木 私が元から能天気だからなのか、いまだに「勤めて嫌だ」とか「駄目だ」って思ったことが一度もないんです。
実は私も生徒指導関係が長くて、異動してきた学校は皆、「不良が沢山いる時代」の不良を扱うようなタイプの大規模校でした。いわき市内で代々「一番、荒れてるひどい学校」と言われる学校にもいまして、中学の近くでバイクの音がすると「行くぞー!」って職員室に声をかけに行って、15人くらいの教員を引き連れて走って追いかけたことも多々ありました。
乗っていた男の子を呼んで、教員みんなでその子を囲いながら、「なんでこんなところに来たんだ」と追及していた時には、地域住民の人から「大人が中学生をいたぶってる」って警察に通報されたこともありましたね(笑)。警察署がすぐ近くにあったので、パトカーがすぐに飛んできて、「知り合いだから、大丈夫です。ちょっとバイクに乗ってうるせえから、しゃべってるんです」という感じで、説明したりしていました。
ーー大変な時期でしたね。
鈴木 一番荒れていると言われていたその学校は、私が行く直前、中学2年の学年は8クラスあったのですが、生徒は「朝好きなときに学校に来て、好きな時に帰ってしまう」ような状態でした。教員では抑えられなくて、PTAの本部役員を呼んでもダメで、保護者を呼んでもダメで……。ある生徒が、体育の先生だった女性の担任に後ろから蹴りを入れて、教室で倒しちゃうようなこともありました。それで8クラスの担任のうち4人が入れ替わって、私は3年8組の担任のことをぶっ飛ばしたクラスの担任やったりしましたね。
でもその反面、この中学の生徒達は「勝負ごと」が大好きでした。だから乗せるとすごくて、そういうところは面白かったです。
ーーやんちゃな子たちの勢いって、すごくいいんですよね。
鈴木 本当に。私、教諭時代は一年中、素足だったんです。大学の時に極真空手をやっていたからか知らないですけれど(笑)、雪が降っていても裸足でいました。そしたら、ヤグザみたいな野郎ばっかりがいるクラスの担任を始めて1週間した頃、生徒達に囲まれたので、「何だよ、おまえら。俺、何もやってねえべ」って聞いたら、「担任、これ」って、靴下をもらいましたよ(笑)。「私らの担任なのに裸足だから、靴下も買えねえんだっぺ。これ、くれっから履いて」って。
ーーいいですね。本当に、優しい子達が多いんですよね。なかなか日本の学校教育の中で、そういう子達の受け皿がなかったような気がします。
鈴木 そんな感じでやっていて、3年生の4月末の授業参観後の学級懇談のとき、とある保護者の方が手を挙げてくれて「どうしたんですか」って聞いたら、「感動しました」って言うので理由を聞いたら、「だって、先生。今年の3年生が、授業の最初から最後までちゃんと席に座って、授業を受けている姿を見たんです。そのことに感動しました」って。こういうレベルですからね。でも、面白かったです。
ーー鈴木先生が生徒指導に適していたというのはあったのかもしれないですが、「生徒指導での経験が、管理職になったときに生かされた」という点はありますか?
鈴木 多分、多々あるんだろうと思うんです。まず、考え方がネガティブだったら生徒指導はできませんので、ポジティブにいろいろ考えます。文科省の言葉を借りるわけではないですけれど、「何か起こってからの対症療法」では大変なわけですよ。時間もかかるし、文句も沢山きますから。だから、そういうことにならないように何かを工夫してやらせたりとか、仕掛けたりとか。自分ばっかりではなくて、「⚪️⚪️先生、こういうのをやらせようとか」とか先生方に声をかけたりしてね。先を見越してやろうっていうのは多分、生かされているんじゃないかと思います。
“仮設校舎”が大事にしてきた「地域の人々とのつながり」
ーー避難先での教育となると、生徒指導の類いはちょっと変わってくるんでしょうか。
鈴木 違うけれども……生徒指導の案件も、あまりなかったですよね。それよりも、生活するのが大変という部分もあったのでしょうし。
ーーでは、学校で見える荒れ方というよりは、「内面に抱えている何か」というものの方がもっと。
鈴木 あったのかもしれないですよね。しかも、住んでる場所も中学校まで歩いて登下校できる子は少なくて、スクールバスが4、5系統、5、6系統もあるような状態でした。スクールバスの運営には月、何千万かかってるとか言ってましたから。
バスといえば、バスのおっちゃんらにも仲良くしてもらって。地元の皆さんには、本当にいろいろ助けてもらいました。仮設校舎の目の前の家の方は、行事の時に毎回、「おめでとう」とか、手作りの横断幕みたいなものを窓に掲げてくださっていたんです。閉校までずっと。
最後の年、その人のところに最後の卒業生達と一緒に「なんでこんなことしてくれるのか」って話を聞きに行ったんです。そしたら、そのおじいさんは元々スクールバスをやっていた会社の、タクシーかバスの運転手とか。同僚とかと一緒にそういう話をよくしていたんだそうです。そしたら「自分んちの前に仮設の学校が来る」って話を聞いたから、「これはなんかしてやんなきゃな」って、そんな風に思ったそうです。そういう縁がずっと繋がっているのが、会津の独特の部分でもあるのかなみたいな話をしました。あれは結構、面白かったですね。
ーー他の先生方と話していく中でも感じたのですが、地域の方々とうまく付き合っていくということは、仮設校舎が閉校になる頃には「この仮設校舎の文化」みたいなものになってたのではないかと思います。仮設校舎ができてなくなるまで、そういう文化が代々の教員の中に継承されいったんじゃないかと思います。
鈴木 引き継ぎみたいなものがあったわけではないのですけれどね。でも結局、生活指導関係を何十年もやってきたけれど、それって基本はコミュニケーションじゃないですか。じっと見つめて、「俺の心、分かるよな」っていう指導ではないので。
それと同じです。例えば、俺が大熊中に行ったときにも、ここで自分に何ができるのかと言えば、現状を把握して、「こういうふうにしたい、してもらいたい」ということをその場に行ってとにかく喋るしかない。
ーーそれであの状況下の大熊中でうまく「はまった」というのは、大熊中にとっても幸運なことでした。
鈴木 ウィンウィンだったのだと思います。自分は大熊中に行かせてもらって、そういう経験ができたのも財産でしたし、それが大熊じゃなくて、例えばいわき市内とか全然被災もしていない普通の学校に行っていたら、うすらぼけたような。ぼうっとした教頭になってたかもしれないですからね(笑)。
ーー先生は大熊中の後、いわき市の中学校で一番大きな津波の被害があったという豊間中に転勤されていますね。時期も違いますし、被害の形も違うので比較はなかなかできないと思うのですが、大熊での経験が生かされていたこともありますか?
鈴木 豊間中は、津波で校舎が被災しました。地元の子ども達はその後、北側にある藤間中の一室を間借りしたり、高久小を間借りしてたようなのです。私が勤務し始めたのはその後、豊間小学校に間借りし始めた時でした。
豊間中の校舎を豊間小の脇に建てる話になって、ここでもまた設計をやりましたよ。脇で工事が進むのを見ていると、「すげえな、これ。山も削って、こんなんなって。どんどん出来上がってきたってな」と思っていたわけですが、結局出来上がりを見ずに、四倉中へ転勤になりました。
ーーまたそのパターンなのですね(笑)。
鈴木 そうですね。大熊の時にはプレハブ校舎に1週間程いられましたけど、豊間の時には一歩も踏み入れることなく、設計だけで終わりました。ただ、その経験が生かされたかと言うと、イコールでもないですけれど。
要望はたった一つ。「何もない、通常の教育活動をさせてほしい」
ーー今年の4月に仮設校舎を閉校して、大熊町に戻ることになりますが、子ども達にとっては、もはや「戻る」という感覚の年齢ではないような気がします。
鈴木 ないですね。
ーー「仮設校舎や避難先の教育を、期限なしでいつまで保つべきなのか」という議論があります。当時は被災していないけれど、大熊の学校の仮設校舎に入ることによって被災者意識が芽生えてしまう子どもが増えてしまうなど、「被災当事者じゃないのに、当事者になってしまう可能性がある」という理由もあります。被災者意識というのは、子ども達だけではなく大人達にとっても同じことが言えそうですね。
鈴木 大人もそういう感覚が拭えませんし、大人の場合には歯止めが効かなくなって要望が膨らんでいってしまうことがあります。それではダメなんです。
私は大熊中にいた時にも、次の豊間も被災してた学校だからなのかそこにいた時にも、必ず「今、何が欲しいですか。どうしてほしいですか」。豊間でも「校舎が津波の被害を受けたけれど、どうしてほしいですか」って必ず聞かれていました。それに対して、私は毎回同じことしか言ってないんです。
ーーどうお答えになっていたんですか?
鈴木 要望はたった一つです。「何もない、通常の教育活動をさせてほしい」という、その要望一つだけです。取材がある、支援物資が届く、有名人が来る。それって普通の学校じゃないんですよ。だから、4月1日から3月31日までただ計画したものを粛々とやって、子ども達がその中で喜んで、生活できる教育をさせてほしい。
でもそうすると、新聞とか絶対取り上げないわけですよ。だって「来んな」って言ってるようなものですから(笑)。でも子ども達のことを考えると、それが一番です。だから聞かれるたびに言うのは、そればっかりでした。
ーー非日常なことばかりでは教員も疲れてしまいますね。善意のイベントだから断れないことも分かるんですが、教育活動は決して派手なものばかりではないはずです。最初の時期は仕方ない部分はあるとは思いますが。
鈴木 もうその時期は過ぎましたよ。10年以上経ちましたからね。
とはいえ、本当に「痛しかゆし」というか悩ましいですよ。支援物資をもらえればありがたいし、くれば子ども達に配りますから。でもありがたい反面、それに慣れて、さっきみたいな言葉を言うようになってしまったりとか。
でも10年経った今はもう、それぞれの学校の落ち着いたカリキュラムでやってしかるべきなのかなと思います。
インタビュー: 2023年2月26日 (聞き手/千葉偉才也)
