大釜 拓さん
おおがま たく
宮城県出身、小学校教諭。千葉県で教員を経験した後に福島県教員に。福島県教員として初任として着任した双葉郡葛尾小学校時に東日本大震災が発生。趣味はサーフィン。
2011年の震災時には、正規教員としては1年目だったという大釜拓先生。避難を続け、学校をどうするのかという自治体の方針も揺れる中、大釜先生は1年ごとに学校を異動しながらも「葛尾小を復活させるぞ」という気持ちを強く持ち続けてきました。震災から12年を迎えた春、理想通りにはいかなかった現実の中で、先生が考える「子ども達につけて欲しい力」についてもお話をうかがいました。
葛尾から福島を経由し、いわきへ避難
ーー東日本大震災から12年が経ちました。12年前、大釜先生は教員何年目でしたか?
大釜 僕の教員同期は、初任の年度に東日本大震災がありました。そしてその10年後にコロナがあったので、「10年周期で凄いことが起こるね。」みたいなことをついこの間、皆で話していました。
僕は福島に来る前に千葉での教員経験がありますので、他の同期とは少し事情が違うのですが、本当に初任で東日本大震災を味わった同期の彼らは、僕が今まで見てきた教員達とは志が全く違う気がします。
「学校があるのは当たり前じゃない。」「自分たちに何ができるのだろう。」と日頃から考えています。たまたまそういう人がぼくの仲間に多いだけかもしれませんが、この世代はすごく熱い人が多いなと思います。
ーー福島に来る前に千葉で教員をされていたということですが、もともと先生のご出身はどちらですか?
大釜 宮城県仙台市生まれで、小学校4年生から利府町に住んでいました。利府町は仙台と松島の間あたりに位置しています。福島大学を卒業して、宮城県で2年間講師をしました。その時の採用試験の倍率は20倍くらいあったので東北では受からなくて(笑)。それで以前に千葉で「キャンプのお兄さん」をやっていたという縁があったので、千葉県の採用試験を受けてみたら、たまたま受かりました。千葉では5年間働いて、結婚することになった時に東北に戻ってきました。でもその時にはまだ採用されてなかったので、1年間はいわきで講師をしました。
福島県で講師する前には当然、「採用試験に受からなきゃいけない。」と思って、勉強をしていました。息抜きに毎日、趣味のサーフィンをしながら勉強してました(笑)。それでようやく受かって、葛尾小に採用されたのですが、その年に震災が起こりました。
ーー採用1年目で震災が起こったのですね。地震の発生時はどのような状況でしたか?
大釜 その前の年にも福島で講師として勤務していましたが、地震があったのはまさに採用されての初任の年でした。その時は4年生の担任をしていたのですが、地震があった時間は図工の授業中でした。体感ですけれど、地震がちゃんと収まるまで30分ぐらいかかったような気がしました。
ベテランの先生もいたので、「宮城県沖地震の時も、このぐらい揺れが酷かったですか?」と聞いて、「いや、これ程ではない。」「今回のほうが酷いよ。」「以前は、こんな長くなかったよ。」なんて話を聞いていました。「どうしよう、どうしよう。」という感じではありましたが、たまたま葛尾小は半年前くらいに耐震工事していたんですよ。だから揺れが弱かったみたいでした。役場にいる人達はぞろぞろ外に出ていましたね。役場の方たちは、「これは、校舎が崩れる。」「なんで、小学校の子達は全然外に出てこないんだ。」「心配していた。」と、あとで言われました。
ただ、その時は学校が崩れるようなイメージはなかったです。ただ「すっごい揺れるな。」とは思いましたけれど。
ーー揺れが収まるまでは、教室内にいたのですか?
大釜 はい、ずっといました。子ども達は机の下に隠れていましたが、僕は「出口が閉まっちゃまずい」と思ったので、12人の子ども達が隠れているのを見ながら、扉を押さえていました。あとは、廊下にいる5年生の先生と状況確認をしていました。大きな揺れが収まった後も、「これはそのまんまは帰せないよね」という話になって、「お迎がえ来たところから帰そう」という流れになった気がします。
実は僕、このことも日記に書いていたんです。「2年生の⚪️⚪️ちゃんが、家に帰ってから、また学校に戻ってきた。」と書いてありました。
ーー3月11日のことも、日記に書いてあるのですか?
大釜 はい。3月11日は、書いています。うちのクラスは基本的にお迎えに来た人から帰していました。やっぱり役場の職員のお家の方とかはすごく遅かったんですよ。だからお家の方がやっと迎えにきた時には、子ども達がすごく抱きついていましたね。うちの教室は夜7時くらいには全員お迎えが来たと思いますが、もっと遅かった学校は沢山あったと思います。
ーー地震による学校の被害は、どのくらいあったのでしょうか?
大釜 いや、葛尾小は全くなかったです。やはり耐震していたというのが、大きかったんじゃないでしょうか。僕はその後、この葛尾の子達を追いかけて柳津に引っ越したんですが、柳津の校舎はバキッと割れていました。「割れたところから空が見えて、雪が降ってきた。」と柳津の子ども達が教えてくれました。
葛尾小に関しては、そういう被害はなかったです。もしかしたら山だから岩盤は強いんじゃないですかね。やはり、耐震工事は大きかったと思います。
ーー最終的には、その日はどういう終わり方になったのですか?
大釜 子ども達を保護者へ引き渡して、「今日はとりあえず終わろうか。」みたいな感じで終わりました。
でも、子ども達を勝手に家に帰してはいないはずなんですが……、なぜかこの日の日記には、「別のクラスの⚪️⚪️ちゃんが、お家の人がいないと言って戻ってきた。」って書いてあるんです。引き渡した後にお母さんがもう一回職場に戻ったのかとか、可能性としてはありますけれど…。今となっては、よく分かりません。
その子の担任の先生も優しい先生だったから、「怖かったねー。」と言って一緒に泣いてたような気がします。「それは不安だったねー。」と子どもを抱き寄せていたのはすごく印象に残ってますね。
ーー大釜先生も帰宅してから、家はぐちゃぐちゃだったのではないですか?
大釜 いや、そうでもなかったです。葛尾の住宅に住んでいたんですが、その頃は一人暮らしだったこともあって本なども置いていなかったですし。大した被害はなかった気がします。
ーー翌日以降は、どのような動きをしましたか?
大釜 翌日の3月12日は土曜日でしたよね。この土日あたりで、原発の爆発と「30キロ圏内の人はすぐ逃げてください。」というアナウンスがあったような気がします。
一方で、職員みんなで町の体育館にストーブを運んだりした記憶もあります。ここら辺の時系列が、自分でも少し曖昧ですね。この頃から、基本的に子ども達ともずっと会えていなかったのは覚えているんです。
ーー避難指示が出てからは、葛尾の自宅には住めませんでしたよね?
大釜 はい。ニュースで「避難指示」が出されて、何時だったか正確には忘れましたが、「自分で避難できない人は、何時に役場に集まってください。」という放送があったんですよね。
僕は自分で避難できたので、何も持たずに移動を始めました。中学校の近くの峠で土砂崩れがあったようで通れなかったりしたのと、原発がどうなってるかよく分からなかったので、当時いわきの小名浜二小で教員をしていた嫁の家にはちょっと行けないなと思って。
それで、とりあえず福島の嫁の実家に行きました。津島とか、立子山の方に行けたのかな。川俣か? 川俣の方を通って行ったのかな。
ーーそれからしばらくは、福島にいたのですか?
大釜 福島市にいたのは5日くらいですかね。認知症のおばあちゃんから「仕事に行かなきゃだめだ。」みたいなこと言われたので、「じゃあ行くか。」って。嫁も「なんでいわきに来てくんないの。今ならこのルートで行けそうだよ。」と言うので、郡山に行って、そこからいわきに行きました。
原発の影響で「今年1年間は外で遊べない学校」を離れ、単身で柳津へ
ーー一方で、学校からの指示はどのようなものだったのでしょうか? ストーブなどの物資を運ぶといった指示ですか?
大釜 4月1日にまた僕は日記を書き始めているんですけれど、日記によると、学校からは「コンビニ跡に職員室を作るように」という指示がありました。磐越自動車道の田村インターを下りた場所からほど近いコンビニの跡地に、葛尾小は職員室を作ることになったんです。
ーーでは、4月1日以降は大釜先生も、そのコンビニ跡地でしばらく勤務をしていたのですが?
大釜 いえ、僕の場合は長くはないです。当初は「とりあえず、そこのコンビニに集合ね。」という感じでした。葛尾の校長が会津方面の坂下とか柳津に避難していたのですが、「自分達では避難できない。」という人達は当初、村民全員で坂下にある廃校に避難したんです。その後、柳津の民宿の方に行く人達と、坂下でそのまま残る人に分かれたはずです。きっと柳津も坂下も、全員を受け入れることはできなかったのだと思います。
僕は避難が始まってからすぐの頃、「郡山勤務」と言われていました。「いわき〜郡山だったら、なんとか通えるでしょ。」という配慮だったと思うのですが。でも、郡山の学校では「今年1年間は、外で遊べません。」とすぐにアナウンスがあったので、「僕はここにいたくないです。」と断りました。そこは船引に住んでいる職員に譲って、「僕は単身赴任でいいから。」と言って、柳津に行きました。
ーー外遊びに対してのこだわりが、先生の中にあったということでしょうか?
大釜 それもありますね。なんだが「屋内にいるのは、自分の仕事じゃないな。」と思ってしまったんです。その時は「葛尾小を復活させるぞ!」と、ずっと思っていたので……。「今は、柳津にいて皆んなも散らばっているけれど、僕は葛尾小の先生で葛尾の子達のサポートをしていきたいな。」という思いでいました。
そういえば、船引に住んでいる職員に譲ったといいましたが、その船引の職員は福島の佐倉小勤務と言ってました。皆が等間隔で遠くなるように、管理職は管理職でアイデアを練っていたのだと思いますが……。
僕の当時の日記を見ると、「もう休職したいです。」と書いていました。「そんな、別にわざわざ配置しなくていいよ。」と。
ーーもうそれどころではなかった、という状況だったのでしょうか?
大釜 それもあるかもしれないです。でも、「ただ振っている・ただ分けているのではないか?」みたいな疑問も少しあったかもしれないですね。
ーーあの頃の話を先生方に伺うと、兼務辞令が結構難しかったというお話が出てきます。
大釜 そうですね。日記にも書いていますけれど、葛尾中と葛尾小の教職員がコンビニに集められて、「次の辞令が出るぞ。」みたいな時の殺伐とした雰囲気は、なかなか感じたことないくらいのものでした。
兼務辞令とかを教員に伝えていく管理職側の作業も、きつかったと思いますし、「“誰をどこに振る”ということで悩むくらいなら、僕は休職でいいですよ。」という気持ちでした。
だから皆が怒っている中で、僕はそこまで極限状態ではなかったです……。「大熊町はすごく優遇された。」というような話もありましたから、他の職員は、それもあっての怒りだったのかもしれません。
ーー優遇というか、うまい方法を取ったという感じだった気がします。だから結局兼務もさせずに、もう早々と会津若松に決めて、皆で移動していったということだったので。
大釜 そこで「大熊だけがすごく優遇された」と言って、憤慨されている中学校の先生がいましたね。多分、「大熊とそうでないものに分かれて、物資を与えられた。」というような経験をされたのだと思います。
ーー目の当たりにされたのかもしれませんね。たとえばよく言われるのは、3月12日・13日頃の水蒸気爆発が起きた翌朝の話だったかと思うのですが、その結構早い段階で、大熊には数十台のバスが夜中到着していて、それに乗って町民が避難できたと。でも、横の双葉はそれができなかった。情報も完全に行き届いていたし、準備もできていたのに……といった話はよく聞きます。
大釜 そうですよね。多分それを目の当たりにした人が怒っていたのでしょうね。「でもこれを校長先生と教頭先生に言っても、しょうがないのに。」と思いながら、僕は聞いていました。僕自身はそのくらいの余裕はありましたが、「それどころじゃない。」という人はたくさんいただろうなとは思います。
ーーそうですね。4月頃の段階になってしまうと、たしかに会津若松は河東にもうある程度の目途を付け始めていた時期でしたから、そういった自治体とそうでない自治体のスピードの違いというのは、結構出ていたかもしれませんね。大熊の話を聞くと、大熊も「奇跡的な綱渡り」をやっていたような気がします。
大釜 でも、それがうまくいきましたね。
ーーうまくいったのは、やはり首長の判断が大きいと思います。だからそうではないところは、集団での移動なんてものはできないから、たとえば富岡のように全国47都道府県に散らばって避難していったと。
大釜 富岡は、学校を工場跡に作ったのでしたよね。
ーーそうですね。曙ブレーキという工場の跡地に9月から作り始めました。だから、半年間は宙ぶらりんの状態でしたね。区域外就学で、それぞれの地域に行ってしまった。
大釜 葛尾の子達も、4月からは区域外就学で、地域の学校に通い始めました。避難が始まった最初の頃に集められた体育館には僕も行って、そこで勉強を教えたりもしたのですが。あそこにいる時は、意外に子ども達は楽しそうでした。修学旅行の延長みたいな感じでしたね。
ーー非日常感?
大釜 そうです。皆で体育館にいて「わーい!」って。でも、大人の目は死んでいるような感じがしました。
少しは物資も集まってきて、図書室みたいな所に本がいっぱいになったり、近くの会津大学がおにぎりを握ってきてくれたりしたこともありました。「子どもがいるって、おっきいなぁ」と思いましたね。
ーー大釜先生はそこに、どのタイミングで合流しているのですか?
大釜 僕は、ガソリンが入ったタイミングです。基本的にいわきにいたので、一人で行ったり、校長と一緒に行ったり、そのコンビニから誰かに連れてってもらったり。毎日ではなかったですね。
「やっぱり葛尾小を作んなきゃいけないな」と強く思った理由
ーーコンビニを拠点としながら、区域外就学が行われているところに時々行くというのが、葛尾小での勤務の中心になったということでしょうか?
大釜 そうです。色々な所に子ども達が散らばっているので、誰がどこに行くという兼務辞令が出るまでは、郡山の赤木小にも行きましたし、三春小にも行きました。色々なところに行きましたよ。「よお!」って葛尾の子たちに挨拶するために。「元気?」とは言えなかったですけれど。
兼務辞令できちんと異動になったのは「8月人事」と言われる頃で、子ども達が区域外就学で行っている所に教員も配属されていったわけですが、僕は柳津小に配属されることになりました。4月下旬の頃にはもう柳津に通ってはいたのですが、着任してすぐに「4年生の理科をやってください。」と言われたのを日記に書いています。はじめましての状態で、国語もやりました。
ーー柳津小には、葛尾からの子達が何人くらいいましたか?
大釜 各クラスに、1人ないし2人くらいでした。全学年の合計で10何人という感じです。
柳津は温泉街なのですが、その温泉街に家族で部屋ごとに泊まっていて、子ども達はそこから学校に通っているような状態でした。でも、避難したばかりの頃、体育館で集まっていた頃には修学旅行気分で通えていた子達が、「さぁ、柳津小に行くよ。」となると、「やだ。」と言っているという声をたくさん聞きました。「今日からここが、君達の学校だよ。」となった時も、拒否反応が強かったです。そんなやりとりを見ていて、「やっぱり葛尾小を作んなきゃいけないな。」と、強く思った記憶があります。
ーー4月から兼務が始まった柳津小で、そのままその年度は勤務し続けたのですか?
大釜 そうなのですが、でも「もう戻ってきて。」みたいな話は当時あったのです。葛尾小の子ども達を三春の岩井小に集めようという話で、教員もそこに集約しようという。近隣で住宅を作るような話だったのかな。でもね、「集めようじゃねえだろ。」と個人的に憤慨したのを覚えています。僕は「いや、葛尾小つくろうよ」と強く思っていましたから。校長にも「いや、葛尾小に僕は行きたいです」って言いました。
数年後、要田小・要田中の跡地を使って、葛尾の学校を作りましたが、その頃にはもう「ほとんど残っていない」というか。言い方が悪いですけれど、この頃にはもう、自立している人・自立できる人はすでに県外に出てしまったと感じていました。
だから「早くに学校を作っておけば、絶対に皆がまた一致団結していたのに。」という思いを多くの人が持っていたのではないかなと。僕は勝手に思っているのですけれど。
ーー自治体間で、行政のスピード感の差が出ましたね。
大釜 そうです。そして、葛尾の子達について行けなかったことに対して、僕は罪の意識がすごくあります。「葛尾小だったら絶対戻ったぞ。」と思う反面、岩井小について行けなかったとか、要田小の跡地の学校に入れなかったっていうのは、多分ずっと罪の意識を持ち続けると思います。要田に行くときにはもう人事が切れていることになったので、入ることができませんでしたから。
ーー先生がこの兼務の辞令で動いてたのはいつまでですか?
大釜 柳津には結局、2011年の1年しかいませんでした。その後もまた兼務で、今度は「福島市の三河台小に双葉郡の子ども達がいるから、その子達をケアして」と言われました。そこは葛尾からだけではなく、複数の自治体からの避難者がいました。三河台に行った頃は、「双葉郡からです。」なんて言うと「避難者・被災者」って言われるような雰囲気があるんじゃないかと、ビクビクしていた時期でした。
その三河台小にも1年いましたので、時期的にそこで僕の3年間の「葛尾籍」は任期を終えました。
ーー1年ごとに異動しながら、大変でしたね。
大釜 葛尾小の校長先生は、とてもいい先生でした。学校だよりを手書きで作って、絵も描いて、それで皆に配るようなことをする、とてもあたたかい先生でした。だから「この人の所でずっと学びたかったな。」とは思います。その人が「ごめんね・兼務辞令でこうなんだ。」なんてことを言う度に、「いや先生は悪くないです。」と思っていました。
「葛尾の子を面倒見てもらった」ことへの恩義は今も
ーー被災当時、先生は4年生を受け持っていましたが、そのクラスの子達とはどこかで接点はありましたか? 柳津ですとか……。
大釜 もちろん葛尾から柳津に行ってる子達がいたのでそこで接点はありましたし、その後、全員ではないですけれど、三春で集まる機会を何回か作ってもらえた時にも会うことができました。年に1回・2回でしょうかね。「卒業式ちゃんとやりましょう。」とか「スケートをみんなでやりましょう。」「プールで遊びましょう。」という機会を作って会っていました。
ーーその時に受け持っていた4年生の子ども達は、今は何歳くらいですか?
大釜 22歳くらいですね。でも、連絡先は交換していないです。一緒にバスケをやってたお父さんはいるので、その人とは繋がろうと思えば繋がれるかもしれないけれど。
ただ、柳津の子達とは仲良くなったので、この前は一緒に温泉に行きました。全員が葛尾小というわけではなく、純粋な柳津小出身者だけです。その子達は僕が担任していたわけではなくて、当時6年生だったのですが。「一緒に温泉に行きましょう。」と誘われて、温泉に泊まってきてきました。「なんで僕と温泉行きたいの?担任じゃないよね?」と思わず確認しました。当時の思い出を振り返る良い機会となりました。
僕は「葛尾の子を面倒見てもらった」という恩義を柳津の人達にものすごく感じているので、誘われた時点でNOという選択肢が思い浮かばないくらい嬉しかったですし、話していて楽しかったです。
ーー柳津小での話をお聞きしますが、先生は柳津小に着任されて、「やりづらさ」などは感じましたか?
大釜 子ども達のことでのやりづらさと言えば、やはり葛尾の子達に「学校に行きたくない。」と言われることですよね。「学校」というのが僕の職場ですけれど、「自分の学校ではない学校に登校するのは、辛いよね。」と思いました。
ーー子ども達も、柳津の子達が受け入れてくれたとかそういうの抜きにして、やはり不安定な状態でしたよね。焼津の先生方にそういう意味での「受け入れる」という部分に関して、すごく丁寧に扱っていただいたのでしょうか?
大釜 柳津の先生方は素晴らしかったですね。会津の「三泣き」ってありますよね。本当に「それ」だと思いました。だからあの土地が、僕は大好きです。
ーー兼務辞令など、難しいこと・難しい経験をしたとお話される先生は多いのですが、そういう意味では兼務の難しさというのがある一方、大釜先生の場合、人間関係はすごくいい受け入れだったということでしょうか?
大釜 そうですね。学校というところは、1人でも職員が欲しいので(笑)。僕がいることで、「あの子の話、今聞けるから授業やっといて。」とか「ちょっと出張行きやすくなった。」とか「子どもの育休が取りやすくなった。」とか。そういう話は、すごく聞きましたね。
プラス1の存在だったので、ずっといてほしいみたいな……。本当はいないはずの人がいてくれるから、そういう意味では、僕は邪険には全くされなかったです。気づいてないだけかもしれないですけれど(笑)。
ーー最後の質問ですが、先生にとってその葛尾の経験が、何か今に生かされていると思える部分はありますか?
大釜 「自分がいないところで、子ども達がどう生きられるか。」を考えるのは、大事だと思いました。ずっと彼らについて行けないというのは分かってました。それまでは6年生の担任とかを4年連続でやっていて、子ども達を節目節目で送り出していました。
でも今回、それとはまた違う別れ方がありました。そういう状況下でも、そこでなんとか生きられる人を作っていかなくちゃいけないんだと思いました。震災の時、「あの子がこうなっちゃったよ。」みたいな話を聞いたので……。辛いことはあるけれど、そこで何か自分でギアを入れて、自分でフォローして。落ち込んでもいいけれど、どこかでレジリエンスというか、「立ち上がんなきゃいけないんだな。」ということを強く感じました。
それから、僕は今までに10校の学校に行っているのですが、そのうち4校が廃校になっています。「学校があるということが当たり前じゃない」というのは、すごく感じます。
インタビュー: 2023年3月28日 (聞き手/千葉偉才也)
