佐藤 武

佐藤 武さん

さとう たけし

本宮市(旧安達郡白沢村)出身、中学校校長。教科は美術。2011年3月の震災発生時は相馬市教育委員会に勤務。2012年4月から葛尾村立葛尾中学校に勤務。2021年度のインタビュー時は、新地町立尚英中学校勤務。趣味は映画鑑賞と散歩。

震災当時、佐藤武先生は相馬市教育委員会の指導主事でした。地震直後から市内の学校の状況を見て回り、安否確認を続ける一方、避難所の支援物資担当としても奔走。その後は全村避難となった葛尾村の葛尾中学校の教頭として、避難先の一つである三春町に、葛尾中学校三春校を開校させました。さらに5年後に校長として戻った時には、同校を閉校、葛尾村へ帰還させる役割を担うめぐり合わせもありました。先生が少人数教育の中で、子ども達に身に着けてほしいと願った力とは、どのようなものなのか。震災を経てより強く思うようになったという「教育の持つ力」について、お話を聞きました。

いつ崩れてもおかしくない庁舎で、連日の激務

――まずは3月11日、震災が起きた時にどこで何をしていたかを教えてください。

佐藤 当時は、相馬市教育委員会の学校教育課で、課長補佐兼指導主事という立場にいました。3月11日の震災当日は中学校の卒業式で、僕は途中人事で教育委員会に入ったものですから、その時に教諭でいた向陽中学校の卒業式に教育委員の方の随行で出向き、参列しました。その後に市役所へ戻って、午後2時46分を迎えました。
 教育委員会は、相馬市の庁舎の最上階の6階にありました。大変古い庁舎で免震や制震ではなかったために、本当にものすごい揺れで。僕の所からちょうど教育長室が見えて、ご年配の教育長が転んでしまっているのが目に入り、「大丈夫ですか」と叫んだのですが、ロッカーや文書棚が全部倒れてきました。机の下に入ってからも揺れは長かったですが、その揺れが収まった段階で市長から、「これからの対応を考えるため、課長補佐以上は市長室に来るように」という連絡がありました。その時には、6階の庁舎の物は本当に散乱状態でしたね。色々な大事な物を踏んでしまいながら、3階の市長部局まで下りて行きました。集まってからは、市長の「津波がどこまで来るかな」という言葉が印象に残っています。そして、それぞれの担当部署を点検し、市民の誘導をするようにという指示がありました。

――教育委員会の方々は、どのような点検をしていったのでしょうか?

佐藤 我々は学校を回ろうということなり、僕は当時の学校教育課長と一緒に行動しました。当時、山側が山崩れしたという情報があったので、まず一番近くの中村第一小学校を見に行きました。ちょうど中村一小は、「耐震がもう駄目で危ない」ということで校舎を建て替えて2週間くらいの新築でしたので、全く問題ありませんでした。
 ところが、街中にある中学校に行ったら、物が倒れたり破損していたりしてかなり厳しい状況で。大体3時15分頃だったので、子ども達は帰宅させていましたが、「大津波警報が出ているので、もしかしたらここに避難される方が大勢来るかもしれない。準備をお願いします」と校長にお話ししました。
 その後、一回役場に戻って屋上に上がってみたら、普段は見えない海というか、海岸線が見えたのです。これはおかしいということでもう一回下りて、また学校回りをしたのですが、海の方面へ学校回りに行った方々が戻って来ませんでした。多分その頃だと思うんですが、大津波が1波ではなく、何波も来たはずなので、その対応をしていたのだと思います。幸いにして教育委員会関係では、外に出た方は全員戻ってきましたけれども、多分、他の部署でお二人が戻って来なかったと思います。

――その津波で、海沿いの学校はどのくらい被災したのでしょうか?

佐藤 海沿いの学校には、実際に津波で流された学校はありませんでした。ちゃぷちゃぷという感じで校庭まで海水が来た所はありましたが、校舎内まで水が浸水してきた学校はないと思います。ただ、一番海側の磯部中学校など海の方の中学校では、亡くなった方がおられます。ちょうど中学校が卒業式で、磯部中でも式が終わった後に子どもは返していたのですが、地震が起きた後には、学校が高台にあるので住民が避難してきていました。しかし、家に戻った方々も何人かおられて。それから、誘導に当たっていた消防団の方が亡くなられたり。全部で多分、相馬市は400何十人の方が亡くなられたと思います。その中には当然、子どもも何人かはいました。
 そして地震の影響で、完全に連絡系統は寸断していました。携帯も通じないし、直通の電話も海の方には通じません。ただもう、後から考えたら当たり前ですが、電線も何もぐちゃぐちゃですから。当然、向こうは停電もしているし、電話も通じる状況ではなかったですね。
 また、どこの自治体でも非常変災があった場合は、その部署によって動く役割が決まっています。教育委員会は支援物資担当ということで大枠で括られていて、避難所設営などは福祉部門が担当、というように決まっていました。
 それで教育委員会は避難所で必要となる物資を確保しなくてはということで、いったん市役所に戻り、私とあと何人かで、スーパーのヨークベニマルや当時のジャスコに向かいました。主にはベニマルですね。ベニマルに町のスクールバスで行って、パンなど、避難を想定した物資を確保する業務に当たりました。この尋常ではない事態に、店の人も途中からは「もう全部持って行っていいです」と。とにかく食べられそうなものを全部スクールバスに積んで戻った頃、住民の避難が始まっていました。先程お話しした新築の中村一小は、「あそこは新築したばっかりだから」と避難してきた方が多かったので、そこに配って、それ以外の所にも配り歩きました。
 だんだん暗くなってきた時に、「海の方からまだ人が来ていない、中村二中に避難している方が何人かいる」という情報が入って、そのスクールバスに乗って中村第二中学校に向かったのですが、途中からもう津波が来ていたので、バスではたどり着くことはできませんでした。津波で流れてきた車も、垂直に立っていますし。やはりその時点ではもう「尋常じゃないな」というのはあって、臭いも、油の臭いというか嗅いだことのないようなヘドロの臭いがまん延していました。そこからは本当にズボズボ泥の中に入って向かい、避難していた方々をスクールバスに乗せて、近くの避難所に送り届けた後、我々は市役所に泊まりました。

――夜中も日が明けてからも、余震は続いていました。役場の庁舎も大変古いというお話でしたが、そこを拠点に業務を続けたのですね。

佐藤 余震が山程あったので、もう市役所自体がいつ崩れてもおかしくない状態でしたが、やはりそこで情報を待ったり、対応するしかないので、教育長も含めてそこで全員が過ごしました。食べ物も多分、なかったと思います。
 次の日からは教育委員会は安否確認と、支援物資が担当でしたので、そちらの手配をしました。支援物資担当については普通は教育委員会の総務課あたりでやるのですが、総務課の主だった人達の自宅が津波の被害に遭っていて、教育委員会の中でもご家族が流されたりした方が何人かいました。僕の家は少し海から離れていたので、「じゃあ私の方で、ある時期までやります」と、支援物資のまとめをやっていました。
 多分、2日目の夜だったと思うのですが、最初に届いたのは自衛隊と、協定している流山市からの大量の水でした。それも夜中、1時とか2時頃に届いたのですが、本当に嬉しかったですよね。ただ、水って重いのです。その頃はまだ避難のバタバタで、機械を使うということもシステム化されていないので、夜中に残っている人を庁内放送で呼んで、どんどん手作業で重い水をトラックから下ろして、積み上げて。やがて、フォークリフトで運ぶパレットを準備して、そこの上に上げていく作業になりました。あとはそのパレットごと、色々運ぶという物流の専門家の支援が入って収まりました。ただそのプロが来るまでは、かなり市役所自体も大変だったと思います。皆がやったことないことをやっているので。そして日中は別の業務をやっていますからね。僕らの場合、一番は学校再開と、安否確認。最初の部分は安否確認ですよね。電話が通じないので各学校に問い合わせはするのですが、各学校でも電話通じないので大変でした。安否確認と、その支援物資の担当作業を3月のある時期までやっていました。そして普通は4月6日が学校の始業式、入学式ですが、6日は絶対できない。4月18日に入学式や始業式をやるという方針を決めました。
 また、地震発生の2日後あたりから、どんどん原発が爆発していきました。そうしたら、南相馬市の小高区や南相馬市の一部から、区域外就学の申請がどかっと来ました。のべ1000人ぐらい。そちらの対応も、日中はしていましたね。結局、相馬市が一番大変だったのは、「被災地でありながら、南相馬等の区域外就学も受け入れる状況」になってきたことでした。

――市役所や教育委員会の方々は、庁舎から帰れない程に多忙な日々が続いていたのでしょうか?

佐藤 最初のうちは、私だけではなく若い方や、ある程度の人達は家には帰れなかったですね。年配の方や女性の方はそうではなかったと思いますが。一方、教育委員会の中でも、「家がない人」は沢山いましたからね。帰りたくても、浜の方の人達は家がない。行くところがないとなると、避難所に行くか、あるいは親戚の家に行くかということになるので、ずっと市役所に泊まっていました。
 多忙さに関して言えば、僕ももう疲れてきてしまってどうしようもなくて、4月1日に午前中3時間だけ休みをもらいました。それが多分、地震が起きて以来、最初の休みです。それは僕だけではなくて、市役所の人たち皆がそのような状態だったと思います。

――全国から色々な支援が届いたと思いますが、それらを受け入れる支援物資担当として過ごす中で、何か感じたこと、考えたことはありますか?

佐藤全国から本当に色々な物資の支援があり、大変ありがたかったのですが、やはりその「物」でも「人」の支援でも、「中途半端な支援」では被災地を駄目にしてしまいますね。「中途半端な支援」には色々な意味があると思うのですが、例えば、仕分けされていない支援物資。この場合、被災地ではそもそも仕分ける人がいないのだから、はっきり言うと、ゴミにしかならないのです。「大切に使ってください」などという手紙が入っていて、色々な文房具が混ざったものいうのは、それはそれで嬉しいですけれど、とても使いにくいのです。支援で入ってくる人も、色々なイベントで入ってくる人も、被災地の人達を思って入ってくるのでしょうけれども、やはりオーナーシップというか、支援されるその人の立場で考えてくれないと、重荷にしかならないと感じました。

学校再開の準備期間は一年 「少人数の学校にしかできないこと」を目指した

――それでは、震災からおよそ1年後、2012年4月1日からのお話を伺います。教頭として、双葉郡の葛尾中学校に赴任したそうですが、当時はどのような状況でしたか?

佐藤葛尾村に赴任が決まった時には、葛尾村は全村避難をしていたため、村自体に入れませんでした。葛尾村の学校は全部休校していて、全国各地の避難先の学校で、子ども達は区域外就学。我々としては、翌年の2013年4月1日の学校再開に向けてその準備を進めるということで、一年間がその準備期間ということになりました。その準備期間に当たったのは、三春町の役場に小学校と中学校が一緒になっていたのでそれぞれの校長と、小学校の教頭、さらに私が中学校の教頭として赴任。それ以外の先生方は全部、兼務という形で色々な学校に散っていましたね。だからその4人の管理職と小学校の事務職員1名の5名で学校再開の準備をしようということで始まりました。まずは「場所をどこにしようか」ということでしたが、葛尾村としてはちょうどその時、役場が今の三春町にまとまってあったのです。その役場のまとまりの中に入っていって、村長や役場のそれなりの立場の方々もいたので、そこで学校再開を目指しました。
 その時には、まだ学校をどこにするかということも決まっていませんでした。最初のもくろみとしては、そこから一番近い旧桜中学校の校舎を考えていましたが、そこが何かの事情で無理だということになりました。7月、8月頃になって、当時、要田中学校という学校がもうすぐ閉校になるという話を聞き、その校舎はどうかと話が進みました。三春町と葛尾村で交渉して、快くOKをいただきました。

――子どもがいる世帯に学校再開の通知を出したのは、いつ頃でしたか?

佐藤まずは大体夏休み頃から、どんな学校にしたいかといった学校の基本方針づくりが始まったので、おそらく夏休みが終わった辺りから、全世帯にアンケートを取り始めたと思います。
 実は7月2日に校長先生が突然心筋梗塞で亡くなってしまって、代わりの校長先生が来るまで一応、僕が校長の職務代理者となっていました。ちょうどその時期というのは、どんな学校にするかといったことを模索していた時期でした。その時期を過ぎると、今度は「こんな学校にしたいから予算を要求します」と、村が国と交渉するのですが、9月1日に新しい校長先生が来るまでやりましたね。

――実際に、どのような学校にしていきたいという話し合いがあったのでしょうか?

佐藤これまでの葛尾中の良さを引き継ぎたいと思いながらも、「やはり同じ学校を作ったのでは、多分厳しいだろう」という考えもありました。子ども達はもう色々な学校に行っていますから、そういう子達が「来て良かったな」と言えるような学校にしたいと。「少人数の学校にしかできないことをする学校にしよう」ということで、例えば修学旅行は2年に一回は海外研修にしようとか。
 あとは緊急事態の時でも、どこの県や国に行っても、実力が発揮できる子というのは、「物を持っている子ではなく、学力が付いている子だ」ということで、そういった力を付けさせたいと考えていました。その方法の一つとして、例えば学校が終わった後には学校内に「村営塾」を開こうとか。そういうことを協議していき、村の方でも大体こちらから要望したことはOKしてくれました。
 それから、今は当たり前になっていますけれども、ICTを学校の基本にしようと。これもこちらで要望したら、あの当時はiPadもあまり知っている人もいなかったのですが、ある程度入れてもらえたり。ICT支援員もいないと、それが運営できないだろうということで、そういう要望も全て通りました。当時からすれば、かなり先進的なことにOKをもらっていましたね。

――開校当初、生徒は何人集まりましたか?

佐藤5名です。途中で1人転校してきて6名になり、その次の年から8人、11人、12人と増えました。子ども達は少なかったですが、村の方々などからは、「村の人口が少なくなったのは原発のせいもあったけれど、やがて迎える事態だった。早まっただけだ」と声も結構あったのです。結局は葛尾や双葉郡のような少人数の学校、少人数の教育というものが、やがて日本国内では多くの学校で直面する現実となります。それこそ何年か早く経験しているだけだということです。だから、葛尾の時も先生方にも言っていたし、ここでも言っているのですが、少人数というのは日本では避けられない状況で、ここが「先行事例」になりうるだろうと思いました。

――葛尾村では比較的多くの方が、三春町に避難したのでしょうか?

佐藤三春町に行った人は多かったと思います。葛尾村の仮設住宅は、元の住宅の地区ごとに固められていたのです。そのため、ある程度コミュニティーが作られながら避難できたので、やはりそれを組織した葛尾村の方がとても賢かったと思います。同じく相馬市も、元の地区ごとで避難所や仮設住宅、その後の復興住宅に移っていきます。阪神淡路大震災等の色々な事例を勉強された方が、そういう風に組織していったのだと思います。

――そういったコミュニティーがある程度出来上がっていた中で、仮設の学校が開校されることは、地域の方々にとっても喜ばしいことでしたね。

佐藤とても喜んでいただきました。ただ、「子どもは別な学校にすっけども、よかったよね」という立場の方もいました。あの時の保護者の考えとしては、もう転校させたくないというものも多かったと思います。それで、「うちの子どもは葛尾に行かせないけども、葛尾の学校は応援すっから」と、何人かから言われました。結局は学校が開校するまでに子ども達は福島に行き、それから会津に行き、会津でも転々としていましたから。少なくとも3、4校はもう転校していますからね。さらにまた三春町の小学校や中学校から、葛尾にできる学校に転校させることを「なかなか厳しい」と考えるのは、仕方のないことでした。

本来あるべきところで、幼小中の一貫教育 「葛尾の子」として育てたい

――先生は少し時間を置いて、再び葛尾中に、今度は校長先生として赴任しますね。教頭の時、開校の現場での指揮を執りながら始まった学校に、また校長として戻ってきた形でした。校長として、学校を三春から葛尾に帰還させたお話を聞かせてください。

佐藤めぐり合わせで新しい学校・三春校を作って、今度はその学校に「校長になって行け」と言われた時、同時に「あなたの仕事は、開校した学校を閉じて、村に帰還することだよね」と言われました。それが、あなたのミッションだと。本当は、僕が行く1年前に学校は村に戻るはずだったのですが、何かの事情で1年遅れてしまって、再びそのめぐり合わせになりました。
 閉校する時には、開校する時の子ども達や保護者、三春町の方々のことが、やはり思い出されました。開校する時に、三春町の町長さんや議員さんから、「葛尾村の方々は大変だったよね。三春町は何でも協力すっから」とお話をもらった時には、やはりありがたいなと思いました。それで今度は、閉校する時にも村の方々と議論して、誰を来賓に呼ぼうかなんて話になった時に、「やっぱり三春町の方々は呼ばないと、多分、報いられないよね」と。そうして、三春町の方々も、当然町長もお呼びして、閉校式をし、引っ越しをしました。

――やはり先生からすると、少し寂しい気持ちでしたか?

佐藤でも本来あるべき所に戻るので、寂しいというよりも、「本来の場所で、本来の地に立とう」という気持ちの方が大きかったと思います。本来と言っても、中学校は中学校に戻るのではなく、小学校と一緒にやろうという形ですが。この点についてもかなり議論したのです。中学校は中学校で、お金をかけて結構直していただきましたからね。体育館も新しくしたし、そちらに戻るという選択肢もありました。ただ、中学校としては小学生が来ないと中学生の人数が増えないわけです。だから、小中を同じ場所で一貫してやるということも、葛尾の強みだろうなということで進めました。それは絶対に、守ろうということで。
 さらに、その敷地に幼稚園も置いて、幼小中が同じ敷地内で常に交流しながら過ごすことで、必ずその幼稚園の子は小学校通って中学校に入ってくるという流れを作りました。「9年間、あるいは10何年間を通して葛尾の子として育てたいな」という部分は譲れなかったですね。

――本来の地に戻ることは、三春に残ると決めた葛尾の方々にとっては、少々寂しさを感じさせるものだったかもしれませんね。

佐藤結果的に、その最後の年に三春の校舎で学んでいた中学2年生と3年生は、全員が葛尾村に戻りました。ただ、校長としての最後の1年間、先生方には「子ども達には、一緒に戻ろうとは言わないようにしよう。あくまでもそれは子ども達と保護者が決めることであって、我々は決めたことに対して精一杯応援するし、それが正しい判断だよね」ということを何度も話しました。皆で戻ろうということは一切言わなかったですね。
 最終的に戻ることを決めても、住居は三春町にあった子もいました。だからそういった子は三春町と葛尾をスクールバスで往復しながらの通学でした。そういうハンディを負いながらも葛尾に戻ると決断した子ども達と保護者に対しては、かなり重い責任があるなと思いましたよね。

――震災を経て、教育や学校に携わる考え方に、何か変化はありましたか?

佐藤今までも「教育の力って、ある程度大切だな」って思っていましたし、大きいなと思ってはいたのですけれども、やはりあのような困難な状況の中で、「変えられるの、教育しかないな」という思いが、より強くなりましたよね。震災の時、相馬市でほんの一時期、支援物資担当をしていたというところもあるのですが、物とかの支援はやがてなくなりますよね。けれども、教育の力というものは、そういう物を超えて、その人本人に身に付かせるものだから、「それ自体がすごい力になるな」という風には、改めて思いました。
 子ども達にも今も言うのですが、「何かあって逃げるときにはお金も欲しいだろうし、物も欲しいだろうけれども、最悪そんなものがなくたって、命さえあればあとは自分の知識とか知恵さえあれば、再建は必ずできる」という確信は持ちましたね。やはり教育の力は大きいなと思います。                     

インタビュー:2021年12月14日(聞き手/久保田彩乃、千葉偉才也)

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