日下 雄一郎

日下 雄一郎さん

くさか ゆういちろう

新地町出身、小学校教諭。2011年3月の震災発生時は南相馬市立福浦小学校に勤務。2011年8月から葛尾町立葛尾小学校に勤務。現在、双葉町立双葉北小学校勤務。趣味はマラソン。

日下雄一郎先生は震災当時、南相馬市立福浦小学校の教頭でした。3月11日はご家族の卒業式のために休暇を取っていましたが、地震発生後には家族を自宅に残して、急いで小学校に戻ります。津波の被害を受け、泥だらけになった住民が小学校に避難してきた翌日、原発が爆発。避難を余儀なくされ、福浦を離れることになりました。仮設校舎での学校再開までには多くの先生達が、県からの兼務辞令に困惑したようです。管理職という立場で迎えた震災と、その後の仮設校舎での学校再開。日下先生が歩んだ10年間の思いを辿りました。

津波被害を受けた福浦 夜に避難してきた地域の方達の姿は、上半身まで泥だらけだった

――まずは2011年3月11日に所属していた学校と、当日何をしていたかについて教えてください。

日下当時は、南相馬市の福浦小学校で教頭をしていました。3月11日はちょうど長女の中学校の卒業式だったので、年休を取って、双葉郡広野町の広野中学校の卒業式に列席していました。私達の自宅は富岡町にありましたが、私の勤務先の都合と、長女の進学のタイミングの兼ね合いで、長女だけは家内の実家のある広野町の中学校に進学させていました。
 地震が起きたのは、卒業式が終わって、広野駅の駅前で家内とお菓子を買っていた時です。その頃は結構大きな車に乗っていたのですが、駐車場に停めていたその車が20センチぐらい宙に浮いてるのを見て、びっくりしたしました。また同時に、何もできないなと思いました。そして、次女が通っている富岡町の富岡第二小学校に向かいましたが、その道中、県道35号線という山側の道を戻っていった時、長女が海の方を見て、「海が黄色くなってる」と言っていたことを憶えています。今思えば、それが津波だったのかなと思います。
 小学校に次女を迎えに行った後は、自宅に家内と娘たちを降ろして、「家族3人で富岡にいなさい」と話しました。その時には、津波には全く気づかなくて。とりあえず、大きな地震があったので、私は勤務先の福浦小に戻ることだけを考えていました。それで、さらに35線を走りに走って、双葉を抜け、小高にある福浦小まで何とかたどり着きました。学校に着いたら、もう校庭に地域の人々が集まって、地震等による被害について話し合っていました。

――福浦小が、地域の避難所となっていたのですね。

日下当時、福浦小の児童は100名程度でしたが、私が福浦小に着いた時には子ども達もまだ学校にいましたし、保護者もほぼ全員いました。思い思いに、焚き火などをしていたような記憶があります。
 私はとりあえず職員室に戻って、現場確認を始めました。校舎は耐震工事直後で新しかったですが、停電で電気もなかったので、理科主任がロウソクを出してきて、灯しているような状態でしたね。トイレの水も出ませんので、トイレの水のために、プールからバケツリレーして、皆で運んだりもしました。それから、各教室は全て開放していましたので、それぞれのご家族で、2階・3階まで上がっていただいて。机はどけて、そこに雑魚寝するような形で、皆が休んでるような状態でした。

――福浦小の立地は、かなり海に近かったですよね。

日下はい。「浦」とついているくらいですから、かつては水面より低かったような土地にありました。私は渋滞にはまりながらも、無我夢中でなんとか富岡町から福浦小まで戻ってくることができましたが、夜の9時、10時頃に集まってきた地域の方達の姿を見ると、上半身まで泥だらけになっていました。どこかに突っ込んだのかなというくらい。そういう方達を見て、「よく自分は無事にたどり着けたな」と思いましたが、実は私自身には全く津波の記憶はないのです。
 一夜明け、次の日に見たら、福浦小の周りが水浸しになっていたので、その時に「津波が来たのか」という実感が湧き上がりました。学校自体に津波の被害はなく、子どもを学校から帰すこともしませんでしたので、誰も亡くなったりはしませんでした。

――避難所となった福浦小では、どのような業務をしましたか?

日下11日の夜は、炊き出しに行って来たのかな。おにぎりなどを貰ったのかなと思うのですが、あまり記憶がありません。12日の午前中には福浦小にも炊き出しが来て、おにぎりや味噌汁を配りました。配り終わってから、「原発が危ない。ここにいては駄目だ」という判断になって、原発からより遠い位置にある小高中学校に皆は避難を始めました。
 そして、残った私達が校庭のドラム缶などを片付けていた時です。直下型の地震みたいなものが、どーんと来ました。その時は「なんだろう」と思っていましたが、後で小高中に合流してからニュースで知らされたのは、原発の建屋の爆発だったらしいということでした。建屋が爆発を起こして、それが本当に地震、直下型でどーんと浮き上がるような形になっていたと。それで今度は、「小高にもいられないな」ということで、南相馬の石神第一小学校に避難をしました。そしてさらにそこから、原町第一小学校に移って、校長と寝泊まりをしました。

――富岡町のご家族とは、別々に避難したということですね。

日下家族とはもう、そこから3日間くらいは離れ離れでしたね。家族はまず川内に逃げて、川内も安全なところじゃないとなって船引に逃げて、その後、東白川の方へ知人を頼って行ったようです。そして最終的には平田村の知人のところに戻ってきて会えました。実家の母や父も一緒でした。

――先生はご家族と合流するまではずっと、校長先生と行動を共にして避難していたのですね。

日下そうですね。2、3日間は、原町一小で、校長先生と一緒に寝泊まりをしていました。原町一小は体育館が耐震工事でリニューアルしたばかりで、まだ全く使っていない状態だったのですが、いきなり避難所になってしまいました。
 避難している間は、色々なところに電話を掛けて子ども達の安否の確認をしていましたが、やはりなかなか繋がらなかったですね。3月いっぱいは、そういった連絡のやりとりをしていました。
 また、3月に実施するはずだった卒業式は、式としての形は取れませんでした。福浦小では、各家庭に卒業証書を送るというような形を取らせてもらいました。

県の辞令に混迷 「居場所はない」と感じた

――では、4月からは、どのような業務をしていましたか?

日下4月からは、残った子ども達と小学校を再開しました。本当に数えるくらいしか人数はいませんでしたが、同じように被害を受けた高平小・大甕小などの子ども達と南相馬の八沢小学校に集まって、一緒に学校生活を始めました。それこそ、家庭科室や階段の下を職員室にしながら、5つか6つくらいの学校が集まって。南相馬市にバスを手配していただいて、かき集めて来るような形でやっていましたね。
 そして5月か6月頃には、私に辞令が出ました。元々は、内示で「4月から葛尾」と出てたのですが、このような事態ですから、すんなりはいきませんでした。それで私は、福浦地区から外れて、いわきに行きました。いわきの文化センターに詰めて、「いわきの学校で兼務をしている双葉郡の先生達が、今どんな状況か」を、管理職として見回ることとなりました。小学校にも中学校にも行って、今困ってることはないかとか聞いたり。相双から避難した子ども達を世話するのはもちろんその兼務の先生なのですが、8月までの約3ヶ月間は、「先生方にご苦労がないかどうか」というようなことを聞いて回ったりしましたね。
 その時はまだ、家族が一緒にいることがままならない方もいましたから、「ご家族と一緒になれるといいね」と、声を掛けたりしていました。それから、いわき市内に来ている双葉郡の子ども達を見回るために、各学校を訪問していました。

――実際に回ってみて、どうでしたか?

日下正解というのがなくて、本当に混迷していた事態でした。未曾有のことだったので、教育委員会もどうやったらいいのか分からなくて、皆が手探りだったのではないかと思います。
 混迷していたと言えば、この時の辞令に関してもそうでした。県から辞令を言い渡されたので、いわき市の教育委員会に行き、「私は、これこれこういう理由で、相双管内から送られてきた者です」と挨拶をしたら、「聞いていないです」と言われまして。それで行き場所がなくて、つらい思いをしました。「あなたの居場所はないですよ」と言われているような感じがしましたね。ただの行き違いだったのでしょうけれども、正式なやり取りがあったのかどうかは、本当に混迷していたので分かりません。本当にぽっと行って、そう言われた時には、何が起きているのかさっぱり分からなかったです。

――その頃、先生はどこからいわきまで通勤していたのでしょうか?

日下平田村で家族と合流した後、しばらく会津に避難していましたが、新年度を迎えるに当たり、いわきにアパートを借りました。長女がいわきの高校に入ることが決まっていたので、家族でいわき市に住むことにしました。
 8月には私は葛尾小学校に赴任することになったので、そこから家族はいわきのアパートに。私は船引のアパートに単身赴任という形でした。

三春町での学校再開へ “子どもを大切にすること”の意義を実感

――葛尾小学校は、どこでどのように再開したのでしょうか?

日下葛尾村は原発事故の影響で全村避難をしていて、避難先は転々としていたのですが、最終的には三春に避難していました。学校は村が要請して、区域外就学という形で、三春の学校に子ども達を入れてもらっていました。一方、葛尾小自体は、名前を存続させるために、288号沿いのコンビニエンスストア跡地に事務所を置きました。そこには小学校の先生だけではなく、中学校、幼稚園の先生方も含めて、主に管理職7、8名がそこに詰めて、事務整理をしていましたね。管理職でない先生方については、その頃にはすでに兼務辞令が出されて、各地の学校に散らばっていました。

――子ども達は、避難所からスクールバスで通学したのですか?

日下はい。三春ダムの周辺に5つぐらいある集落をスクールバスが回っていたので、子ども達は、三春町立の岩江小学校や岩江中学校に通うことができました。私もそのバスに乗って、何をやるわけでもないですが、1年8ヶ月間、送迎にあたってました。
 最初にスクールバスに添乗した時は、「誰この人」という感じでしたね(笑)。子ども達は私のことを、本当に送り迎えだけのバスガイドみたいな形で考えていたのかなと思います。毎日顔を合わせていると、気心が知れ、乱暴な言葉遣いをしたりわがままな行動をとるようになったりして、その子の性格がだんだんわかるようになり、それはそれで良かったと思います。
 コンビニエンスストアの跡地にあった事務所は、教育委員会が三春ダムの周辺に移った時、一緒に移動しました。そして、「今度は、村で学校を立ち上げるんだ」ということで、学校再開に向けての準備を始めました。

――そうして2013年4月に、三春町にある要田中学校で、仮設の小学校・中学校が開校しました。先生はそこで何年間勤務しましたか?

日下葛尾小には3年間勤務しましたが、仮設校舎で実際に教育活動ができたのは、1年間だけでした。要田中は三春の学校の中でもデザインがすごく素敵な学校でしたが、子ども達はそんなに多くは戻っては来ませんでした。
 それで、クラスを複式学級のような形にして、一つの学級をパーテーションで二つに分けて授業を行いました。教育活動を行うために、建物をどういう風に活用するかというところから話し合いました。

――震災が起きてから、子ども達と向き合うという、いわゆる学校の先生としての業務ができなかった期間がありました。先生にとって、それはどのような経験でしたか?

日下単身赴任でいわきから行きましたが、「何しに来てんだろうな」という気持ちがありましたね。当時はダム湖畔の中にあった葛尾幼稚園の副園長でもあって、園児がいるダム周辺の線量計を定点観測するのが私の日課でした。小一時間を掛けて、10箇所くらいを線量計で測る作業です。粛々とこなすしかないな、という気持ちでした。

――そういった経験は、教員としての今の日下先生の考え方に、どのような影響を与えてますか?

日下村内の学校を選んで戻ってきた子ども達のことを、「本当に一人ひとり、大切にしていかなきゃいけないな」ということを感じるようになりました。大切にするというのは、何でも優しくするということではなくて、その子のために本当に親身になって思いやるというか。そういうことが求められるんだろうな、と思いました。こういう事態になったのであれば、「目の前にいる子どもをじっくり見て、個別にあたっていかなきゃ駄目なんだろうな」という思いにはなりましたね。

――先生は今、いわき市の双葉町立双葉北小学校で教頭をされていますね。葛尾小を開校させた経験で、何かご自分の役に立っている部分はありますか?

日下そんなに大それたことではないですが、環境的に似ているということでは、スクールバスがあります。今も双葉の子ども達は皆、いわき市内からスクールバスで一斉に便乗して学校に来ています。5台のスクールバスに乗って学校に来るところは、当時の葛尾と同じです。子ども達が一斉に来て、さよならする時にも一斉にざっといなくなってしまう。「今日は学校でどのようなことを楽しんでもらおうか」「子ども達にどのようなことを体験させようか」ということを先生方と話し合いながら、仕事しています。

言い渡す側と受け入れる側、双方が抱えた「兼務」辞令の難しさ

――コンビニの職員室もそうだったと思いますが、葛尾の勤務の中で、特に印象的だったことは何でしょうか?

日下当時、避難したからということではありませんが、避難後間もなく中学校の教頭先生が、がんでお亡くなりになったことがありました。また、中学校の校長先生が、「具合が悪いんだ」と言って病院に行かれたんですけれども、病院の待合室で倒れて、結局、脳溢血で亡くなられたということもありました。やはり、とてもご苦労されたのだと思います。私は8月という途中の段階から葛尾小に入りましたが、その数か月前の春、校長先生が先生方に兼務辞令を言い渡した時は、喧々囂々だったという話を聞きました。その時には、相当なご苦労をされたのだと思います。

――一私達も、他の先生方から兼務辞令の難しさについてお話を聞くことがよくあります。今、日下先生がおっしゃっていたような、兼務辞令を言い渡す側の、ある意味で県教育委員会との間に挟まれた中間にいる管理職の先生方の心労は、やはり大きかったのですね。

日下大きかったと思います。通常の人事だったら本人の希望も考慮されますが、今回は校長先生が本当に何もないような状態で、「どこどこに行きなさい」と、先生方に言わなくてはいけなかったわけですから。詰め寄られて大変だったなんていう話は、後からよく聞かされましたね。今振り返ってみても、兼務で良かったという話は、あまり聞いたことがなかったです。結局、兼務を受ける学校にとってはお荷物みたいな存在だったと思います。

――兼務して良かったと思えたケースがあるとしたら、どのような立場にいられた先生達でしょうか?

日下うちの家内は、良かったと思える例外なケースだと思います。双葉郡の学校から、いわき市内の学校に兼務させてもらって、理科の専科を持たせてもらったと言っていました。通常、理科は準備が必要だから、大変な科目です。そこに、兼務の家内が入ることになったそうです。じっくり教材研究ができますし、「あの時に私、理科に開眼したんだ」みたいなことを言っていました。専科専属でやっていますから、「子ども達も、理科が好きになった」と言ってもらったこともあったようです。

――少し羨ましいなと思いましたか?

日下そうですね。でもやはり、職員室での居場所はなかったとも言っていました。

――最後の質問になりますが、これから先、震災の経験がない先生達も増えてきます。日下先生ご自身の経験を、これからの世代の先生達に伝えていきたいと思いますか?

日下もちろんです。双葉地区の教頭会でも、この10年間の状態や取り組みの様子を研究集録に収めました。「双葉郡の小中学校は震災・事故後の10年間、こんな風な経過を辿ってきたんだよ」と伝えるものです。
 管理職もどんどん新しくなっていきます。双葉の先生だけではなくて、県内からの先生達も管理職として入ってきています。ですから、双葉郡のことをそういう先生方に知ってもらう必要性を感じます。

――特に伝えていきたいのは、どういったことでしょうか?

日下今こうやってオンラインなどで教育もどんどん変わりつつありますが、目の前の子どもから目をそらさずに、じっくりその子どもや保護者と向き合うことが、学校の体制として必要だと思います。それをなくしてしまったら、学校の存在価値は失われてしまうとさえ思います。コロナ禍で現在やむなくオンライン授業に取り組まざるを得ない事態になっていますが、子どもとじっくり向き合い、そこから思いやりの精神や人の痛みが分かる子どもを育てていかなければならないと思います。
 教員としてのあるべき姿というのは、今ハッキリは言えませんが、若い先生方にはそれを絶えず模索していってほしいと思います。です。特にこういう変革期にあたり、「別に学校に集まる必要はないんじゃないか」という風潮もある中、改めて学校の存在価値を考えていく姿勢を持ってほしいと思います。

インタビュー:2022年1月27日(聞き手/久保田彩乃、千葉偉才也)

 

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