門馬 貞先

門馬 貞先さん

もんま ただし

南相馬市原町区出身、小学校教諭。2011年3月の震災発生時は浪江町立浪江小学校に勤務。現在、大熊町立大野小学校・熊町小学校勤務。趣味はPC、読書、スキー。

 門馬貞先生は震災当時、浪江町立浪江小学校1年生の担任でした。原発からの避難後には、自分で当面の勤務先を探すよう町から指示されるなど、先生達は困難な状況で過ごしました。その後、兼務先だった喜多方市の学校勤務を経て、大熊町の熊町小学校で10年勤めた先生は、「自分は震災に育ててもらった」と振り返りながら、今はその経験を糧に子ども達と未来を考える学習を重ねています。今、熊野小で取り組んでいる「未来デザイン」をテーマにした総合学習についても、お話を伺いました。

原発からの避難、一度目は失敗 家族とともに知り合いを頼った

――まずは2011年3月11日に、何をしていたか教えてください。

門馬双葉郡双葉町立浪江小学校で、1年2組の担任をしていました。1年生は1クラス25人で、3クラスありました。子どもの数は、学校全体で600人くらいだったと思います。地震が起きた時間にはほとんどの児童達は下校させていましたが、うちのクラスには児童クラブで残っている子どもが一人いました。その日はその子を児童クラブにはやらずに、教室で漢字の勉強等を1対1で見ていました。
 突然、とてつもない大きな揺れが来たので、すぐその子を机の下に潜らせました。私は机を外側から押さえて。そうして、ものすごく横にシェイクされるような揺れがあり、揺れがある程度収まってハッと気がついたら、私達は机ごと、教室の中を3、4メートルくらい移動させられていました。
 その後も余震がひっきりなしに続いていたので、何回か教室の中で様子を見ながら、隣の教室にいた1年3組の先生と、「どこに避難したらいいだろうか」、「体育館に行く? 校庭に出る?」という相談をしました。1年生の教室と2年生教室だけ別棟で、ここもいつ崩れるか分からない程の揺れだったので、とりあえずすぐ近くの体育館に避難しました。そうしたら校庭の方に避難する高学年の子達も見えたので、私達も子どもを連れて校庭に逃げました。

――浪江小は、海岸からの距離はどれくらいでしたか? 津波の心配はなかったのでしょうか。

門馬海岸からの距離は正確には測っていませんが、車で海まで行こうとしたら10分、15分はかかるかなというくらいです。普段だったら津波など心配しなくてもいい距離でした。
 地震があったその時には津波のことなど全く頭になかったのですが、子ども達が校庭に避難した後、あまりにも寒かったので、今度は3階の多目的室に移動したのです。そうしたら、その頃からだんだん町から学校に避難してくる人が出てきて、「津波がそこまで来ているぞ」という話をされて驚きました。「浪江東小学校の校庭まで、津波が来たって言ってたぞ」という話も聞いたのですが、浪江東からうちの学校までは1キロくらいです。「じゃあ本当に来るかもしれない」ということで、一番安全そうな3階に避難して、外を見ていました。あとはテレビをつけていましたね。放送は地震後から一切使えませんでしたが、電気はついていました。
 最終的に、津波は浪江小までは結局届きませんでした。後から聞いた話によると、浪江の中では、浪江東小を少々かすめたくらいの津波が一番近かったようです。

――その後、学校では、どのくらいの時間を過ごしたのでしょうか? ご自宅には帰れましたか?

門馬学校には、夜の7時頃までいました。その後は「家族の安否確認のために、一回帰っていいよ」と言われたので、原町の自宅に戻りました。道路がものすごくグチャグチャになっていたので、いつも通っていた道が通れなくて、段差もできたりして。だいぶ遠回りして、いつもの倍以上の時間をかけて帰りました。幸い家は無事でした。
 それで、本当はその夜、「家族の安否を確認したら、夜のうちにまた学校に戻ってきてほしい」と言われていたのです。そのため学校に戻ろうと夜9時頃に家を出発したのですが、原町から浪江に行く時にいつも通っている小高の道が、あるところを境に全部真っ暗になっていました。街灯も全部消えていて、進もうとしたものの違和感を感じて。「これ以上進むのはまずいな」と判断して、引き返して家に戻りました。後から考えれば、その通ろうとした所に実は津波が来ていて、それで全部電気関係が消えて真っ暗だったのでしょう。ただ、道路そのものはあまり損傷を受けていませんでした。なんとか通って一部迂回しながら、翌朝は7時頃に浪江小に着きました。
 浪江小に着いたら「原発の10キロ圏内だから避難を」という話になっていて、今度は車のない先生方を乗せて、津島という山の方に向かうことになりました。普通なら20~30分の距離でしたが、その時の渋滞は酷かったですね。4~6時間くらいかかりました。1センチくらいずつしか動かない大渋滞で、浪江の街中から津島のだいぶ登りきった所までずっと続いていました。
 結局、津島の小学校と中学校はもういっぱいで、たしか津島の高校に車を停められるところがあったので、そこで乗せている先生方を下ろしました。夕方になっていたと思います。ようやく一段落がついたので、「あ、もしかしたら家に帰れるかな」と思って、私は原町の自宅にいったん帰ることにしました。避難する側の車線はすごく混んでいましたが、逆は空いていたのですーっという感じで帰れました。

――その日は、そのまま原町のご自宅で過ごしたのですか?

門馬はい。「しばらくは浪江小に立ち入りができないから、連絡するまで学校に来ることは考えなくていい」と連絡があったので、そのまま家で過ごしました。とは言っても、原発が爆発した時でしたから、家族で避難を試みました。
 まず一回目は失敗避難だったのですが、白石に向かって。義理の弟が白石の奥様と結婚されていたので、とりあえずそのご実家を頼って、車2台で2家族で行きました。ところが、白石は原町よりもずっとダメージが酷くて、中通りの方がすごいことになっていました。電気も水も来ていなくて、皆が体育館に避難していました。トイレも酷い状態でしたので、「これは原町に戻った方がマシだな」と。一晩だけ駐車場かどこかに停めて、白石で過ごしましたが、翌朝には帰ってきました。

――ガソリンは、大丈夫でしたか?

門馬大丈夫でした。今から考えると無駄に消費したなと思うのですが、あの時は皆が必死だったので、「原発が爆発したから、ここにはいられない」と逃げたものの、結局は原町に戻ることになってしまいました。それで今度は、妻の親戚のいる鏡石に行きました。鏡石もやはり酷かったのですが、親戚の家に一泊させてもらいました。ただ、そこにも何泊もできるような状態ではありませんでしたので、次は妻の知り合いを頼って、会津坂下町に避難しました。その時は、私達家族4人と私の母が一緒に車に乗って。そして妻のお父さんとお母さんが、弟の車で一緒に。3家族が一緒に避難して、しばらくは会津坂下のビジネスホテルに滞在してました。それで、その時からご縁があって、今までずっと会津坂下に住んでいます。

――避難をしている間には、何か学校の業務はしていましたか?

門馬いろいろ連絡も繋がらなくなっていたので、とりあえず最初の一週間くらいは、連絡があるまでこちらからも連絡をしないようにしていました。そもそも連絡をしようにも、学校に人がいないので繋がりませんでしたしね。
 そして、ようやく学校から連絡が来て、「避難している子ども達の消息を、できるだけ調べてくれ」と言われました。皆が避難していて、自分も避難している状態で、消息を調べるなんて普通はできないですよね。他の先生達もなかなか連絡が取れずに苦戦していました。連絡が取れたと思ったら、遠い子は四国に行っていたし、他県にも大勢行っていました。

先生達も被災者という立場 被災地の学校が再開するまでの紆余曲折

――その後、学校が再開するまでに、どのような道のりがありましたか?

門馬まず「4月1日、二本松東和町の木幡第二小学校に、教員は集まりなさい」と連絡がありました。浪江町の職員が全員集まったところで、たしか教育長から言われたのが、「とりあえずあなた達が仕事する場所は立ち入り禁止で入れなくなった。だから、仕事する場所は、当面の間、自分達で見つけなさい」ということでした。
 その時は大変でした。木幡二小が交通の便のいいところにあったらよかったのですが、実際には山の中にある廃校になった学校で、当時は携帯も入らないような場所でした。電話する時は車で下まで降りていって、東和町の街中まで行って電話していましたね。それで、探しなさいとは言われたものの、先生方も被災している状態でしたからね。浪江町に住んでいる方や、双葉や大熊、富岡に住んでいる方は、皆さんがもう自分の家に入れない状態でした。家がなくなってしまった先生方からしたら、自分も被災者なので、家族の進学のことや住居のこと、そういった色々な手配や手続きでいっぱいいっぱいでしたよね。 私はたまたま会津坂下町に避難していたので、そういう場所から少し離れていました。会津はもう次の週から授業が再開しましたから、ダメージが比較的少なかったのです。そして自分で仕事先を見つけなくてはいけないという話を家に持ち帰ったら、私達が避難する時に声をかけてくださった会津坂下町の妻の友人が、自分が教員をしている学校の校長から坂下町の教育長に話を繋いでくださって、「そういうことで避難しているのだったら、しばらく坂下町の小学校に勤務していいよ」と言ってくださいました。
 それで私は、4月は当時の坂下小学校に週1回、今は閉校してしまった坂下町立若宮小学校という少し小さな学校に週2回、残りの2回は木幡二小に通いました。木幡二小に2回というのは決まっていて、浪江町の全職員が情報交換等のために週に2回は木幡二小に詰めるようになっていました。

――移動がかなり忙しいですね。泊まったりはしなかったのですか?

門馬毎日通いました。高速を使って、毎日が大移動です。何が大変って、木幡二小に来る2回が一番大変でしたけれど。その頃にはアパートが見つかったので、4月からは小さくてボロいながらもアパートで過ごせるようになりました。
 ただ、4月の勤務は酷かったですね。出勤簿を自分で作って、校長先生の所に行って、「今日は勤務したので、ハンコをください」と言って。毎回、今日はどこどこ……とハンコを押してもらって。それを毎回木幡に行った時に浪江小の事務の先生に見せて、「こんな感じで働きました」と報告をしました。

――木幡二小では、どのような仕事をしていましたか?

門馬支援物資が全国からどんどん届くようになってからは、その支援物資の運搬や封開け作業のお手伝いをしたり。あとは、先生方の安否確認や所在地をまとめたり、子ども達の所在確認ということで、兄弟関係も沢山いますので、その辺の情報交換をしていましたね。
 そんなことを4月いっぱいやっていましたが、ある時、私が木幡二小にいなかった日に、「浪江小学校の職員の中で、5月からのこの兼務校を割り振ってください」と言われた、ものすごい日があったそうです。その中にはたまたま2つくらい会津の学校があって、私ともう1人会津に避難している先生に、「この人達は会津に行っているんだから、会津に」と割り振ってくれました。そうして喜多方市の松山小学校に兼務させてもらうことになりましたが、実は初任が喜多方だったので、私にとって喜多方は勝手知る場所でした。少し、良かったなと思いました。
 それから、私の場合、当初は兼務という形だったはずが、5月から正式にその松山小に勤めることになりました。その当時、4年生の人数がいっぱいで、手のかかるお子さんがいたりもして大変だったためです。だからその学年は本当は1クラスなのだけれど2学級扱いにして、ベテランの先生と一緒に半分ずつ見ましょうということになりました。A組、B組という風に分けて指導して、たまに入れ替えてという感じで。

――その頃には、喜多方では何事もなかったように授業を行って、一方で数十キロ移動すれば、避難物資をまとめる仕事をしていたということですね。日ごとに仕事がガラリと変わりましたが、そのギャップはどうやって整理していたのでしょうか?

門馬整理はできていなかったと思うのですが、やはり5月からは、教壇に立つことで気が紛れたというか。普段の私達の職務をすることで、震災に関わることから一旦離れられたという感じでしたね。ただ、その11ヶ月間は、妻が南相馬の石神第一小学校というところに勤務していて、石神第一小は避難しなかったので、妻は私や子どもとは離ればなれの生活でした。あの当時、原町には放射線量が0.5くらいの場所がいくつかあったので、幼稚園生だった双子の子どもは私と一緒に暮らしました。
 結局、喜多方の松山小には2011年の5月から翌年3月まで11ヶ月間勤務しましたが、長く感じましたね、その間に色々なことがあったので。松山小の勤務にまるっきり専念するわけにもいかないし、子ども2人を母親と会わせたかったので、車に乗せて週末に原町まで行って日曜日の夜に戻ってくるということをしていました。妻の方が会津に来ることもありましたが、本当に狭くてボロいところだったので、それよりは原町に行った方がまだのびのびと生活できるかなと。また、津波で自分に近い親戚が亡くなったりもしたのでその捜索や葬儀もあったりと、色々大変だったとは思いますね。

総合学習で取り上げた、放射線教育の難しさ

――2011年9月に浪江町の学校も二本松で再開しましたが、先生はそこには戻らずそのまま松山小で2012年3月まで勤務されて、その後、会津若松市で再開した大熊町立熊野小学校に、4月から赴任されたのですね。熊野小は最初、どのような印象でしたか?

門馬熊野小に内示が出てから、「どんな学校なんだろう」と思って見に来たことがあります。見つからないうちにさっと帰りましたけれどね。私が見に来た時には、廃校になっていた旧河東第三小学校の校舎を借り受けて4月から熊野小が再開して以来、約11ヶ月経っていましたので、ある程度、今のような形になっていました。初めの頃は、校庭とか花壇もものすごい状態だったと聞いてます。
 私はそこから10年間、ずっと熊野小で教務をしていましたが、教務を持ちながら担任というのも2回やりました。教務の仕事について言えば、調整が大変でした。当初は今よりも人数が多かったので、何をやるにも場所が足りない。今でこそ家庭科室、図工室があるけれど、そういうのは一切ないので、全部教室でやるしかない。家庭科は設備がないので、携帯用のガスとコンロを使ったりとか。
 それから、最初の頃はやはり自分が情緒不安定でしたね。普段はなんてことないのですが、儀式的行事がダメでした。最初の5年くらいはずっと、校歌を歌うような時期になってくると、歌えないんですよ。なんだかグッと詰まってしまって。なんでかなとある時考えてみたら、自分が浪江小学校で1、2、3年とずっと担任をしてきて、一人ひとり可愛がってきた子ども達が、ちょうど卒業する年だったのです。それを見届けてあげられなかったというのが、とても悔しくて。浪江小はそのあと半年後、夏に二本松かどこかで「卒業証書を送る会」をやりまして、その時は参加させてもらいました。でも、その時にも校歌が歌えなかったですね。皆もそうでした。

――2012年当初に熊野小にいた子達に対しては、どのような震災学習、地域学習をしましたか?

門馬最初の5年くらいは、私と同じく、子ども達もものすごく不安定でした。特に高学年は震災の話を持ち出すことが半ばタブーのような状態で、震災の話より、こちらでの生活やこれから先の話をした方がいいという雰囲気でした。中にはパニックというか、気持ちがグーンと沈んでしまう子もいたので、本当に気を遣いましたね。そこだけは先生方もピリピリしていたし、そういう話になると「ちょっと」と止める時もありました。
 一方、その時の町の意向で、私が来た年から、「放射線教育を、総合学習で取り上げよう」ということになりました。小学校の子どもに放射線教育は難しい、訳が分からないということで、先生方から渋い顔をされましたが、先生方も一緒に勉強しましょうと。本来、総合学習では、色々な体験をすることや学校の外に出かけることが必要なのです。でも、出かけるわけにはいかない。できることと言ったら、仮説を立てたり提言をすることくらいしかないのですが、町の指導を受けながら、放射線教育を何年かやりました。
 それからしばらくして、双葉郡で「ふるさと創造学」が始まりました。それで、「うちの学校では放射線教育をやっているから、放射線教育で学んだことをふるさと創造学で発表するんだ」ということになり、「放射線教育とふるさと創造学」という名前で何年か行いましたけれど、それで放射線教育は徐々にフェードアウトしました。難しいので、なかなか扱い切れないところもありましたね。ベクレルとかシーベルトは大変なので、その辺は「なんで、ここにいるのか」というきっかけ作りにして、あとは去年まで、大熊町の郷土のことを色々取り上げるようにしていました。

――今年からは、内容が変わったのですか?

門馬はい。新しい学校を建設していくという目標があり、未来を向いていきましょうということで、今は小中学校が一緒になって(であっている?少し下に中学生の話が出るので)、「未来デザイン」という総合学習に取り組んでいます。子ども達が「幸せを求めて、何ができるのか」を考えていく学習です。例えば食、空、絵、音楽などについて。個々人ではなく全体で取り組み、色々なものが並行して行われていく形です。10月には「未来デザインウィーク」を設定して、一週間色々なワークショップを入れ、家の方にもどんどん来てもらって。「毎日、未来デザインの勉強を楽しみましょう」という一週間を開催しました。
 こういう形で開催することになったのは、もともと 「文化祭どうするよ」という話が上がっていたこともあります。子ども達も中学生が3人しかいなかったので、3人だけでやるには文化祭は苦しいです。それで、学習発表会と合体させようかという話もしてたのですが、「そもそも、そういう学習発表会のために劇の練習をするのも、違うよね」と。私達が目指す教育はもっと違う形だよねというところから、「そういったウィークにしようか」という話になりました。「何もやらないのも寂しい感じがするから、じゃあ長くして、一週間やろう」と。そしてそのウィークだけではなく、週に1回とか、月に2、3回くらい、色々なワークショップが入って、色々な幸せ追求が続いているというところですね。

――先生も生徒も、準備がとても大変そうですね。

門馬大変ですけれど、その一つひとつのテーマが、「めっちゃワクワク」するんですよ。この間、「空」を扱った時には、子ども達が飛行場に行って、飛行機を皆で作る体験をして、機体の下に自分達が描いた絵を貼って。午後になったら、その飛行機でパイロットに飛んでもらう、というような活動をしました。
 また、「食」を扱った時には、子ども達とお弁当を考えて、喜多方の子ども達とも協力して、そのお弁当を売るとか。今度また、今月も24日に福島県庁まで売りに出掛けます。知事と教育長にも食べていただく予定です。

未来のことに目が行くようになったことが、自分にとっての「復興」

――先生ご自身にとって、「復興」とは何でしょうか?

門馬人に、「復興」ってあるのでしょうか。気持ちの持ちようですかね。自分の中で、今まで過去や震災のことしか見られなかったところから、「未来のことに目が行くようになった」という瞬間が、復興なのだと思います。 この学校で、ずっと長く大熊町に携わっている中で、家がなくなった町の子ども達を教えている中で、「自分がそんな後ろ向きな気持ちでいちゃいけないな」ということを感じてきました。色々な事情があって、どうしても後ろ向きな気持ちになってしまって、なかなか前を向けない先生達の代わりに、「少しでも自分が早めに切り替えて前に進もう」と。それで言ったら、自分はもう復興していると思いますけれど、いつ復興したかと聞かれると難しいですね。

――子ども達や、これからの若い先生達に対して、先生の体験してきたことをどのように伝えていきたいですか?

門馬最終的に、自分が経験してきた中で伝えたいのは、「気持ちの切り替え方」ですかね。どんなにどん底となったとしても、ずっとどん底でいることはないし、いつかはハッピーになるということを伝えたいです。私自身、本当に震災に育ててもらったなという気持ちがあります。自分が震災に遭った時点で浪江小学校の1年生の担任だった頃と今とを比べると、大熊町で色々なことを教えていただいて、自分も成長させてもらいました。震災そのものも、いい糧にはなってると思いますね。何でもプラスに考えていきたいです。

2021年12月16日(聞き手/久保田彩乃、千葉偉才也、筑波匡介)

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