松本 涼一

松本 涼一さん

まつもと りょういち

楢葉町出身、中学校教諭。教科は英語。2011年3月の震災発生時は双葉町立双葉中学校に勤務。現在、楢葉北小学校勤務。趣味はコーヒー、多肉栽培、スパイスカレー作り。

震災時、双葉郡の双葉町立双葉中学校3年生の担任だった松本涼一先生。先生は震災後、以前から続けていた英語教育の勉強会のご縁で、週末に全国各地を飛び回り、英語授業の研究発表とともに震災の体験を発表する活動を続けてきました。そうした場で先生は必ず、「ふるさととは何か」という問いかけを提示し続けています。その「ふるさと」の問いかけをするようになったのは、浪江町から避難してきたある男子生徒の一言がきっかけでした。先生が震災を通じ、教員として学んだこと、いま若い世代に伝えたいことを伺いました。

家族の安否が分からない中、学校で迎えた朝

――震災当時、双葉中学校3年生の担任をされていたと伺いました。まずは、震災当日の学校の様子を教えてください。

松本3月11日は福島県内全ての中学校が卒業式でしたので、どの学校も似たような状況だったと思います。午前中の卒業式が穏やかに済み、地震が起きた時間帯は1、2年生が部活動をしていて、体育館にいた私も大きな揺れを感じました。とにかく「子ども達を体育館から外に逃がさなくては」と思いましたが、男子はなんとか逃げたものの、女子は皆で一塊になったまま、足がすくんでしまって動けない。一人ずつ剥がして、なんとか外に出しました。外に出てからも余震が続いていて、駐車場の車はバウンドし、すぐ側にあったプールの水は風呂桶を揺らしたようにボチャンボチャンと溢れていました。

 その日、午前中は天気がよかったのですが、午後から天気が崩れてきて、とても寒くなりました。校舎の耐震工事はしていましたが、まだ余震が大きかったので、しばらくはブルーシートを敷いて、1、2年生達と外で避難を続けました。校庭は隆起、段差ができたりして、水道管も破裂。校舎の中も結構な被害がありました。

――その日のうちに、双葉中学校は避難所になりました。その準備の様子を教えてください。

松本双葉町内の何カ所かが避難所になりましたが、おそらく町から「双葉中学校も避難所に」という指示があって、先生方で手分けして教室の掃除をしたり、避難準備・運営の準備をし始めました。係なんてありませんので、それぞれが「受付やります」「教室片付けます」と申し出て、なんとか避難所を設営しました。そこに近くの町民が700人ほど、徒歩や自家用車で避難してきました。私は駐車場係だったので、そのままずっと外で火を焚いたりしながら駐車場にいました。

 そしてその日の夜9時頃に町内放送が入って、「原発から放射能が漏れた可能性がありますので、全員屋内に退避してください」というアナウンスがありました。

 私自身のことについて言えば、楢葉町の自宅の家族とは連絡がとれていませんでした。自宅は海から近く、津波の警報もあり、自宅の電話も携帯電話も通じません。テレビを見ると、速報で「楢葉町の海側の家20~30軒が流された」というテロップもあって、「あぁ自分の家はもうなくなったな」とか、「家族はもしかしたら死んだのかな」なんて思いながら運営をしたのを覚えています。

――ご自分の家族の状況も分からない中、先生方は非常に過酷な精神状態の中で、避難所運営をされていたのですね。

松本初日は、他の先生方とそのまま徹夜で避難所を運営しました。そして翌朝5時過ぎ、校長先生から臨時打ち合わせの招集がかかって、職員室に集まりました。そこで校長先生から「子ども達の安否の確認を」というお話があったのですが、その時点で「もしかすると津波で家が流されているかもしれない」という先生が、私も含めて2、3人いたんです。自分の家族の安否も、家が流されているかどうかも分からない中、「生徒達の安否ももちろん大事だけれど、先に家族の安否を確認させてほしい」と進言した先生がいらっしゃいました。その言葉を受けて、5時半過ぎ頃から先生方もそれぞれ帰宅しました。

 私は楢葉出身の先生方と一緒に、3人で一つの車に乗って学校を出ましたが、道路も隆起していましたし、普段だったら30分で通れる道に1時間半かかりました。その時に同乗していた男の先生は、「大熊の熊町小学校に勤めている奥さんと連絡が取れなくて、小学校に行ったらもう誰もいないし、奥さんの行方がわからない」という状態。もう一人いた養護の先生は、「自分の子どもがどこに避難したかがわからない」という状態。私達は、避難所などを巡りながら、自分達の家に戻りました。

そしてその帰り道で私の携帯のメールが復活して、それまでに妻から送られたメールが一気に届きました。そのメールを読んで、「家族はJヴィレッジに避難している」ということがわかりました。私は家まで送ってもらった後、自分の車でJヴィレッジで行き、朝8時頃に家族と再会できました。

――12日の朝8時頃に、ようやくご家族と再会できたのですね。

松本再会はできたのですが、また津波が来るかもしれないということで、子どもの着替えや荷物を取りに再び自宅へ妻と戻りました。我が家はギリギリ、津波の被害からは免れたのですが、うちから海側にあった家はもう全て壊滅状態となっていました。

9時過ぎにJヴィレッジに戻ると、父親が慌てて、「今すぐ南の方へ逃げるように言われた」と言うのです。放射能漏れがありそうだという情報が町に入ったようで、そこから家族6人でいわき市にある妻の実家へ避難し、12、13、14日の夜に泊めてもらいました。

ところが、14日の夜、宮城の女川原発に勤めている友人が、私に電話をくれました。双葉郡では東電関係に勤めている人が多く、友人もその一人でした。その友人が、「東電関係の人達も、逃げられる人は東電・原発から100㎞以上は離れたところに逃げているから、できれば遠くに逃げた方がいい」とアドバイスをくれました。ただ、避難している妻の実家の家族にも突然それで避難するとは言えないので、家族会議を開いて、「こういう状況で原発も危ないというから、一晩様子を見て何かあったら東京の親戚のところへ逃げよう」という話をしました。

14日の夜は一晩寝ないでテレビを見ていましたが、朝8時頃にニュースを見たら、建屋の水素爆発の様子が出てきまして。そのときは水素爆発とかは分かりませんでしたが、映像を見て「これはまずい」と直感しました。東京の親戚のところへ皆で逃げるため、そこでまず私達、松本家がひとまず東京の立川の親類宅へ逃げました。その道中も、いつもだったら2時間くらいで行く200キロの道のりに、12時間かかりました。高速も使えず、ガソリンスタンドも1,000円だか2,000円だかの制限がある中、ギリギリの状態でなんとかたどり着きました。

――その後しばらくは、ご家族で東京での避難生活を続けたのですか?

松本立川の叔母の元に家族で避難して、そこから私だけ埼玉県まで通ったり泊まったりする生活が始まりました。埼玉県のさいたまスーパーアリーナに、双葉町が集団で避難していたためです。そこでは、双葉町の教育委員会の手伝いをしていました。ちょうど3年生は高校入試が終わったばかりで、その発表が震災後だったのです。子ども達の進学先をどうしようかと色々な打ち合わせをして、この先どうなるのか分からない中、とにかく県の教育委員会からの情報を待ちました。

 そしてようやく受けた県からの情報は、「子ども達の受けた高校のほとんどは原発の被災地区になってしまって、再開の見通しが立たない」というものでした。さらに、「県としては、受験した子達全員を合格とみなす」ということでしたので、それを保護者に連絡し、とりあえず避難先の行けそうな高校に相談してくださいと伝えました。この時は、保護者も大変だったと思います。

全員が合格しているということから、高校入学の要件は満たしているため、転入という形か何かで大体は面談のみで入れてもらうことになり、全員がどこかの高校には入りました。

――そして3月末には、双葉町の避難所が埼玉県加須市の騎西高校に移りましたね。

松本3月30日、31日の2日間かけてだったと思いますが、1400人の双葉町民が、さいたまスーパーアリーナから騎西高校に移りました。そして双葉中学生籍の子達は、騎西中学校に編入することになりました。震災直後の4月に編入した子は、1年生から3年生まであわせて70人。双葉中から騎西中に入った教員は教頭先生と私だけでしたが、生徒達70人は、元々あった騎西中学校の学級に3、4人ずつ入っていきました。

生徒が抱える「学校の中での問題」と「避難所の中での問題」

――騎西中学校では、どんな仕事が担当でしたか? 今までと違う仕事も増えたと思いますが、先生が一番気を配っていたことは、どんなことでしょうか。

松本1年目は、学校に来られなくなってしまった子のフォローなどをしていました。避難所に声かけにいったり。それから、精神的に不安定な子もいたので、授業に入って様子を見たり。2年目は、1年生の担任を受け持ちました。そのクラスには、たしか双葉の生徒が2人、浪江の生徒が1人いました。

 気を配っていたことと言えば、とりあえず移ってきた70人のことは特に注意深く見ていました。場合によっては保護者とも面談して、学校生活に馴染めるように。

また、双葉中から一緒に来た教頭先生は3年生、私は1、2年生を担当、と割り振りを決めて、私は英語の教員なので、1、2年生の英語の授業には全クラス行くようにしました。1、2年生で12クラス、あとは特別支援学級などもあったので、13、14クラスをぐるぐる回っていましたね。最初は双葉の子を注意して見ていましたが、だんだんと子ども達も慣れていったと思います。

 他にも、生徒指導の先生や管理職が集まる「生徒指導委員会」という集まりが週に1回あったので、そこに参加させていただいて何か問題がないか話を聞き、必要であれば保護者と担任に繋いで問題解決をしようと努めていました。

――実際に、何か生徒達にトラブルが生じたこともありましたか?

松本学校の中での問題と、避難所の中での問題があると思います。学校の中での問題で特に覚えている中では、下駄箱に「原子力」とか何かメモ書きされたものを靴箱に入れられた、という問題がありました。

 その問題の時にも、できるだけ「担任の先生とその子達の信頼関係を作っていただくように」と思っていました。実際、本当に騎西中の先生方はよくしてくださり、目をかけてくださりました。私の立場としては、担任の先生から聞いた上で、その子と話をしたということです。

 生徒指導委員会の中でどうするかという話は、私としてはお願いするしかないですし、実際にそこに割って入って「これやったのは誰だ」などということはなかなかできないことでしたが、できるだけ学年・学級で問題解決をしていただくようにお願いをしていました。

――学校の中での問題のほかに、避難所の中での問題もありましたか?

松本ありました。避難所といっても元々は学校のスペースなので、普通の教室に何家族もいるような状態でした。教室にパーティションなどの仕切りもなく、プライバシーが全くない。「おじさんのいびきで眠れないから、学校に来て保健室で寝る」とか、女子の着替えの問題があったり。そうした生活のストレスが、子ども達の学校でのストレスにも繋がっていると感じました。避難所の大人の目の届かないところで、中学生だけではなく卒業生が出てきて、トラブルがあったり。煙草が見つかったこともありました。そういった部分も、町の問題として取り組んでいました。

――町の問題として取り組んだのは、松本先生が立場上、入らなければならなかったからでしょうか?

松本埼玉で中学校に勤務し始めたのは5月になってからでしたので、4月いっぱい、5月の途中までは避難所にいて、教育委員会所属の立場で子ども達の情報を仕入れたり、避難所の中をぐるぐる回って様子を見たりということをしていました。その中では、やはりいろいろな問題が出てきて。私が騎西中学校に勤務し始めてからも問題がなくならないので、勤務終了後、夕方とか夜に「出動」というんでしょうかね。避難民、町民方から「あそこで誰々が煙草吸っていたよ」と言われて、見回りしたり。そういったこともありました。

――そういう時、単純に「コラ、何やってるんだ!」とも言えない状況もあると思うのですが、松本先生はどのように子ども達と向き合ったのですか?

松本よかったのは、震災当時は双葉中に赴任して2年目だったので、卒業生のこともある程度知っていたということです。知っている子が悩みを抱えたり問題を抱えたりして……のことだったので、問題行動があったときだけではなく、普段から会って喋ったりしていました。それで防げたわけではないですけれども、そういった子ども達との関係がありましたし、地域の人達の中にも知っている人が何人もいたので、その意味では私も役に立てたのかなと思います。

――震災前も教員をされてきて、松本先生なりの考え方があったと思うのですが、避難所での対応や避難先の学校での指導を通じて、先生の考え方が変わった点はありますか?

松本大きく見方が変わったのは、「町の学校なんだ」ということです。それまでは町役場や教育委員会とはなんとなくしか関係がありませんでしたが、避難所となっていた元高校の職員室が役場になり、一緒に仕事をするようになってから、とても身近に感じられるようになりました。

 双葉町が役場機能をいわき市に移転し、私も仮設の双葉中学校で勤務するようになってからも、教育委員会や町役場とはすごく密接に繋がって、そちらと連携した事業は、前よりも企画するようになりました。子ども達は町の中で育っているというか、「町の人材なんだな」ということを、以前より強く思うようになりましたね。

深く考えさせられた、「ふるさとって、何だろう」ということ

――この時期に接した生徒の中で、特に印象に残っている子はいますか?

松本騎西中2年目で1年生の担任だった時、浪江から来た男子が私のクラスにいました。津波で家が流され、原発もあって戻れない状態で、普段はほとんど喋らない静かな子でした。

 ある道徳の時間に「ふるさとって何だろうね」という授業を一時間行いました。それは「双葉の子達のことを、埼玉の子にわかって欲しい」という思いがあったからです。それでふるさとの定義を全員で考えていたとき、その男子が「住んでいる所が、ふるさとになるんじゃないですか」というようなことを書いて、考えさせられたことがありました。「生まれ育ったところがふるさと」だと、それまで思っていましたが、「ふるさとに住めなくなったら、ふるさとってどうなんだろうな」、「ふるさとってどういうことなんだろう」と考えるようになりました。楢葉町も2015年10月に避難指示が解除になって、2017年4月から町内での学校生活を再開しましたが、ふるさとに住めるというのは当たり前のことではないということを、その時からはっきり意識するようになりましたね。

――先生はこの時期、「併任」という立場で教員をされていたと伺いました。「併任」とはどのような立場ですか?

松本「併任」は、この震災の対応のためにできた制度です。私は福島県教育委員会と埼玉県教育委員会という二つの県の教育委員会に雇用され、「福島だけれど、埼玉の先生」として勤めることになりました。最初は戸惑いましたが、先生方にもよくしてもらい、なんとか全うできました。

――担任となると、埼玉県出身の子ども達の担任にもなったということですが、その子達への接し方と、双葉・浪江から来ている子達への接し方とでは、何か違いはありましたか?

松本ほとんど同じですが、双葉・浪江の子達とは地元の話もしていました。担任をもったのは、震災当時に5年生だった子達ですので、その時の先生の名前を出したり、どこに住んでいたのというところから始まったり。「私はとりあえず双葉中学校の先生だよ」と、信頼関係を築けるようにしていましたが、他の埼玉の子ども達からしてみれば、私もただの1人の騎西中学校の先生なので、それ以外のところは私も同じように接していました。

――先ほど、道徳の授業で「ふるさと」を考えたお話がありましたが、震災をテーマに先生がクラスの中で話したり、一緒に考えたりする授業は行いましたか?

松本多分、話はしたと思います。その頃、私は英語教員としての発表活動も行っていて、震災直後の2年間で50箇所、土日を使って北海道から沖縄までいろいろな所で発表をしてきましたが、その中では必ずこの「ふるさと」の話題を取り上げていました。その材料を使って、学校でもおそらく3月前にやったんじゃないかなと思います。

――その全国各地での発表活動は、どのような経緯や思いで始められたのですか?

松本もともと英語教員の学習会の団体がありまして、震災前から発表者として活動をしていました。そこでは英語教育・指導について話をするだけでしたが、震災によって家族が東京に住むようになったことをきっかけに、事務局の人から「東京にいれば、土曜の朝に羽田空港を出て、いろいろ回って、日曜の夜に帰ってこられるよね」と話がありました。避難している身ではありましたが、福島にいるよりも地理的にいろいろなところに行けるようになったので、余計に派遣していただいたといいますか。

 その活動の中、姫路で、ある教頭先生から「あなたは震災を経験しているのだから、震災のことをしっかり伝える責任があるんだよ」と言われました。それからは、意識していろんな人にこういう話をするようになりました。今まで鹿児島の中学生に話をする機会もありましたし、中学生を含めてこういう話は伝えなくてはという気持ちでいます。

――そういったお話を各所でされる時、大事にされているメッセージはどんなことですか?

松本子ども達が対象の場合だと、「誰かと別れる時には、その別れを大切にしなくちゃ」ということです。朝、お母さんと喧嘩したままで学校に来ちゃったとか。友達と喧嘩したまま学校から帰ったという時のことですね。あの震災の時も、もう会えない状況になってしまった人もいるんだよねという話を、子ども達相手にはいろんなところでしています。

 あとは「今、ここ」ということを、どこでも伝えていますね。私も単身赴任とか他の県で働くなんて、今までは「やれ」と言われても「やだ」と言っていた方なのですけども(笑)。流れ流れてここまできたので、「今いる場所で何ができるかを考えよう」と、子ども達にも先生方にも、自分の経験として伝えています。

震災で学んだことは、「教育に、地域は関係ない」ということ

――この震災でのいろいろな経験を通して、松本先生が得たものは何でしょうか?

松本「教育に、地域は関係ないな」と思いましたね。教育に懸ける思いがあれば、教員としては多分どこでもやっていけるんじゃないかと思いました。

最初に勤めた学校で少し大変な思いはしましたが(笑)、その時の経験や思いがあるからこそ、騎西中学校でいろいろな子達と問題にぶつかっても、なんとかやってこられたんだと思います。

英語の授業にしても、指導の仕方がちゃんとしていれば、別に埼玉に行っても授業が変わるわけではないので。授業で子ども達と信頼関係を作れば、子ども達はどんどん接してくれるようになるというか。それがわかったので、教育に都道府県の壁はないと思いました。

――今回、いろいろな先生方にインタビューしたお話を冊子にまとめ、「これからの先生達」に見ていただきたいと考えています。だんだん震災の記憶がない世代が教員になってきているという部分もありますが、松本先生が若い先生方に伝えたいことは何でしょうか?

松本若い先生に対しては、子ども達の後ろにあるもの――例えば家族や、育っている地域というものを考えて、子ども達に接して欲しいなと思いますね。単純に「その土地に建物を建てたら、それが学校」という訳ではなくて、やはりその地域の人達の願いや思いというものは確実にあります。

 私達が「学校はこういうものだ」と考えて、それを生徒に当てはめるのではなく、地域の課題を発見して貢献できるような子どもが育つ取り組みを考えないといけないと思います。学校を卒業した時に、地域や社会で必要とされる人間になってほしいという思いは、どんな先生も持っていると思いますので、外に出掛けていって、地域の人から話してもらうようなことを、どんどんやって欲しいですね。

 地域連携とよく言われていますが、私の若い頃にはそういった部分に目は向けていませんでした。今は、地域にも目を向けていろんな事業を進めていくと、今まで見えなかったものが見えてくるかなとは思います。

インタビュー:2021年8月20日(聞き手/久保田彩乃、千葉偉才也)

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