鈴木 博

鈴木 博さん

すずき ひろし

楢葉町出身、中学校教頭教諭。2011年3月の震災発生時は富岡町立富岡第一小学校に勤務。2021年度インタビュー時は、富岡町立富岡第一中学校勤務。趣味はスポーツ観戦。

震災時、富岡町立富岡第一小学校5年生の担任だった鈴木博先生。鈴木先生は2021年8月の辞令を受け、仮設の校舎となる富岡町立小学校三春校の立ち上げを任されました。他の先生方と共に、「ここが本当に学校になるの?」という場所を学校に作り上げていく過程で、「これから先も経験できないような一体感」を、先生方の中に感じたといいます。その一体感が原動力となり、三春校では、先生と子ども達のやりたいことを次々と実現させていきました。当時の学びを、いま管理職として若い世代にどう伝えていくか。三春校の閉鎖・解体日が半年後に迫る秋、鈴木先生に伺いました。

原発避難と聞いても、当時は「避難しても、すぐ戻れるんだろうな」というような感覚だった

――まずは震災当時の2011年3月11日、ご自身がどこで何をしていたか教えてください。

鈴木私は当時、富岡第一小学校で5年生を担任していました。地震が発生した午後2時46分の時点ではクラスで帰りの会をやっていて、ちょうど「さようなら」をしたところでした。子ども達何人かが教室を出ていって、その時に大きな地震が起こりました。子ども達を急いで呼び戻して、教室で机の下に潜らせて、4~5分ですかね、あの揺れを耐えさせたというか。子ども達はもう、その時点で無言でした。やっぱり怖さがだいぶあったんだろうなと思います。
その時の揺れの中で一番覚えているのは、まず教卓の脚が折れたこと。それから、その当時はテレビが上の方に置いてありましたので、テレビを押さえていたのですが、それ押さえきれなくなったことです。校舎の3階にいたので、街並みも良く見えました。瓦が落ちたり、あとは埃が舞い上がったりと、そういった光景を見たこともよく覚えています。
その後、3階から校庭に避難するために、「子ども達にとって、どのルートを通るのが安全なのか」という判断が必要でした。防火シャッターが全部下りていましたので、そのルートを探しに行って。ただ、下駄箱も全て倒れている状態だったので、3クラスの先生と話し合いをしてなんとか子ども達を避難させましたが、校庭に出るまで15~20分かかりました。最初の地震から、その後の地震でもだいぶ揺れていたので、相当な時間をかけて校庭に避難しました。

――当時、鈴木先生のクラスの子ども達は、何人でしたか?

鈴木27名です。全校生徒で400人ちょっといましたので、比較的大規模な学校でした。

――学校から海まで、直線距離でどのくらいだったのでしょうか。津波の心配はしましたか?

鈴木直線距離で、どのぐらいでしょうか……。1キロくらいかなと思います。しかしその時点では、津波の心配など全く頭になかったですね。津波に関しては、その数日前に「津波何センチ」という注意報が出たんです。そのときも、20センチか30センチ。だから、やはりそういう経験をしていないと、いざという時に頭の中には浮かばないんだなということは、その後分かりました。

――ではその時、津波が来るという情報はどこで得たのでしょうか?

鈴木いや、まったく情報はありませんでした。校長先生の指示の下、「もう避難するよ」ということで、避難が始まったので。それで、警察署の脇を通り、今村病院の前、役場の前を通って、最終的にスポーツセンター、体育館に避難をしました。

――鈴木先生ご自身のご自宅の状況については、どのように知りましたか?

鈴木その頃は、大熊にアパートを借りていました。揺れの後、私はまずスポーツセンターに子ども達と避難したのですが、実はスポーツセンターの体育館には入れませんでした。それで、そこから脇にあるテニスコートに避難しましたが、そこも寒かったため、今度は富岡第二中学校の体育館に子ども達とバスで移動しました。
富岡第二中に着いて、先生方から「荷物を取ってきて」と頼まれて外に出たのですが、橋に通り掛かった時、今までに見たことのない光景がありました。横たわった車が何十台とあって、私はそれを少しぼうっとして見ていたんです。そしたら警察官に、「何人死んでると思ってんだ!」と怒られて、慌てて学校まで走ったことを鮮明に覚えています。
その後、自分の車で富岡第二中に行って、夜11時頃に学年主任の先生から「先生方も、とりあえず帰って」と言われ、自宅に戻りました。もちろん、もう道も真っ暗でした。
帰宅して嫁さんを車に乗せて、楢葉にある嫁の実家まで連れて行こうとしたのですが、ガソリンの残りがほとんどありませんでした。それで、どうしようかなと思っている時に、夜の森で1軒だけ空いていたので、手巻きで入れてもらいました。後のことを考えると、そこで満タンにできたのが非常に大きかったです。
楢葉の実家に嫁さんを送り届けて、2~3時間そこで過ごして、ジャージーとサンダルしかないような状態でまた富岡第二中に戻りましたが、すぐに原発避難という形になりました。ですから、自宅に戻れたのはその後、5月か6月の一時帰宅の時にようやくでした。

――どのような情報を得て、原発避難をすることになったのですか?

鈴木富岡第二中の体育館にいる時に、避難している方々が動き出したんです。「あれ、何だろう」と思っていたら、その後に放送が入りました。「原発避難になります」と。そこで初めて知りました。

――その放送を聞いて、どのようなことを考えましたか?

鈴木今では事故の大きさというものが分かりますけれど、当時は「爆発する」なんていうことは、全く想像できませんでした。ですから、「避難してもすぐ戻れるんだろうな」というような感覚でした。それでほとんど何も持たずに、避難しました。
また、子ども達の中には、その時点で家族の迎えが来ていない子が数名いました。それでどこにも帰せなかったので、他の先生方何人かと一緒に川内村の避難所に避難しました。
実際には、私は川内まで行くことができませんでした。自分の車があったので、それを運転していましたが、大渋滞で断念。それで実家に戻って自分の親を車に乗せ、翌日、平田村の道の駅にちょうどいた時です。原発爆発の映像を、車の中で見ました。
そのまま郡山までたどり着きましたが、親も高齢なので、「どこかにホテルはないか」ということで探していた時、ビッグパレットの近くのルートインに泊めてもらうことができました。そこから、今度は親戚が多い栃木県の宇都宮に行って、アパートを借りて。何日かは、そこから郡山に通う生活をしました。

散り散りになった子ども達への連絡から始まった新年度

――郡山に通ったのは、どういった目的ですか?

鈴木通い始めたきっかけは、3月31日にビッグパレットに集まるようにという教育長からの指示でした。集まった上で、今後、どうしていくか。散り散りになった子ども達への連絡、指導要録などを送らなくてはいけないのでその準備、そしてその作業をどこでやるか、といったことに対応していくためです。
その本拠地は安積行政センターになったのですが、「アパートをこの周辺にすぐに借りて下さい」と言われても、その時にはそれが非常に難しくて。不動産屋さんがどこにあるかすら知らない土地で、すぐにアパートを探すことが私には困難でした。そこで、郡山から通うことにしたのです。

――その後、先生は、学校の対応の中で何を担当しましたか?

鈴木まず、自分のクラスの子達が「どこに避難した」という情報を電話連絡で得てから、避難先の学校に児童個々人の指導要録を送るという作業でした。ただ、送り先の学校の住所が分からないので、先生方で手分けして、インターネットカフェに行き、住所を検索。それを行政センターに持ち帰り、そこから発送するということを、4月の段階で多分10日ぐらいやったのではないかと思います。

――クラスの分というと、20何人分ですか?

鈴木そうですね。ただ、先生方も数がいましたので、それぞれ役割を分担して行いました。
指導要録を送る作業以外にも、子ども達の様子を見に行ったりもしました。ビッグパレットふくしまにも子ども達が多く避難していて、その子達は安積第一小、第二小、永盛小学校に行くことになっていたので、朝、ビッグパレットから子ども達を小学校まで連れていって、授業なんかちょっと見るということもありました。
その他には、ビッグパレットで支援物資の仕分けなどを行うこともありました。それを大体10日ぐらい行った後、今度は「兼務辞令」が出ました。私は昔の岩瀬村、今の須賀川市にある白方小学校で、5月から8月まで「兼務」という形で勤務しました。

――兼務のときは、どのようなお仕事をされていましたか?

鈴木主にTT(チームティーチング)を行っていました。そのクラスには富岡出身の子が2人いまして、私も算数のTTで入ったりして。自分の担当学年ではなく、4年生と2年生の女子児童2人でしたけども、いきなりの転校ということもあって、緊張はもちろん感じました。なかなかなじめないというか、顔がこわばっていて。その点は、お父さんとも話はしたのですが。
また、TTにあたって不足しているものがあれば、その都度ビッグパレットに取りに行くという形を取っていました。

――指導の仕方や声の掛け方など、意識されたことありましたか?

鈴木いやそれが、なかなか声が掛けられなくて。まったく知らないところに行くというのは、なじむまではなかなか難しいですよね。教員である自分もそうでしたから。まったく知らないところに行って、知らない先生方と一緒に仕事するわけですから、なじむまでは相当時間かかるだろうなと自分でも感じていました。
一方、白方小の教頭先生、校長先生が協力的で、「先生方で会いに行ってきな」というお声掛けをいただき、散り散りになった自分の元クラスの子ども達のところに会いに行ったり、その子達の学校を訪問する機会もいただきました。それで行ってみると、保護者の方の中にも、会った瞬間に泣いてしまう方が結構いらっしゃって。「やっぱり知っている人に会うと、ほっとするのかな」なんて思っていました。

――先生ご自身としても、「なじむのが大変だった」というお話でしたが、兼務先の白方小で勤務をしている時、どんなことを考え、何を大事にしていましたか?

鈴木生活のことを考えると、まず一つはもう「夢中」ですよね。仕事の方も、今思い返すと、何でしょう。もう、頭が空白だったような、そんなに考えられないような状態だったんじゃないかなと思います。とりあえず、流されるままにいたような気がします。

――そういったことを、一緒に避難をしてきた方や、同郷の先生方と話すような機会はありましたか?

鈴木教頭先生は、先生方が散り散りになった学校をいろいろと回られていましたけれど、あとは他の先生方とはそんなに話していないですね。そのとき目の前にあったことに、精一杯だったんじゃないでしょうか。

これから先も経験できないような「一体感」が先生方の中にあった、特別な一年間

――その後、先生には「新しく立ち上げになる三春校」にという辞令があり、まずは曙ブレーキを見に行くところから始まるんですよね。約1ヵ月弱で、元々学校でもない、ぼろぼろの曙ブレーキの事務棟を、一歩ずつ学校にしていったお話を聞かせてください。

鈴木元富岡町立富岡第一、第二小中学校の先生方が集まったような形で、曙ブレーキまで、みんなでバスに乗って行ったのを覚えています。「えっ、ここ? ここが学校になるの?」というのが第一印象でした。
でも、2011年9月から始まった、あの一年間。あの一年間は、多分これから先も経験できないような「一体感」が先生方にあったかなって思います。同じ経験をして、自分達が受け持った子ども達も同じ経験をしていて。その先生方が集まって、「よしやるぞ!」ではないですけれど、そんな言葉はないですけど、そういう雰囲気や一体感が、ものすごくありました。ゼロから立ち上げる経験って、多分そんなにないですよね、教員をやっていても。
それから、一時帰宅のときには、先生方もカレンダーに丸付けて、「ここ、いないからね」と言い合える雰囲気がありました。誰か境遇の違う先生がそこにいれば、そんな話はできないわけです。先生方がみんな同じ境遇なので、気を遣わず、「一時帰宅、どうだった?」などという話ができたことも、先生方の中に一体感が生まれた一因なんじゃないかと思いますね。それが、やりたいことがまたできるということにも繋がっていきます。

――やりたいことというのは、具体的にどんなことですか?

鈴木例えば、子ども達が「修学旅行、行ってないよ」となったら、「じゃぁ修学旅行、行こうよ」となります。もう、教育課程になくても、どんどん入れられる。支援者の方にも、どんどん入っていただいて。普通の学校では、経験できないですよね。だから、子ども達に俳句か何かを書かせたときにも私的に感じたことですが、「震災は辛かったけれど、逆に震災があったからこそ学べた」というものが、子ども達にあったのかなと思います。

――三春校が立ち上がって、先生は最初に担任を持たれましたか?

鈴木6年生の担任をしていました。震災時に5年生を持っていて、三春校で6年生を持ったので、一緒の子ども達は持ち上がりのような感覚ですね。9月の開始の時点では3人でしたが、卒業する時には13人になりました。
9月の最初の頃は、「やっぱり震災のことに、あんまり触れられないのかな」と思っていました。というのも、報道でもだいぶ放射線に関しての話が出ていましたから。「子どものケアをしっかりやりなさいよ」ということも文科省から出ていたので、なかなかその辺のデリケートな部分は、触ってはいけないものだと思っていました。
でも、その先ほどお話しした俳句を書かせた時に、子ども達はきちんと、自分の気持ちを吐き出せたんですよね。ちゃんと、書けていた。だから、「あ、これもうちょっといろんな話してもいいのかな」と、その時に気付かされて。それから、一時帰宅の話をしたり、富岡での小学校の昔の話とか、子ども達からもそういう話を聞くことができるようになりました。あの俳句が、本当に子ども達と繋いでくれたというか。こちらが勉強になったというか。学んだこともあったんだなということが、よく分かりました。

――印象に残っている俳句は、ありますか?

鈴木)その俳句は、最後の一文が、「恵んでくれてありがとう」でした。食事に関して、そういう気持ちを持てることは、なかなかないですよね。その子も、なかなか「ありがとう」ということを言う子ではなかった。その子がそういう言葉を書いていたので、食事や日常の大切さとか、そういうものを多分あの子ども達は学んだ・感じたんだろうなと思いました。

――3月で卒業させて、翌2012年度、三春校での初めての入学式など、また新たな経験があったと思います。先生はどのように、2012年度を過ごされましたか?

鈴木2012年度からは教務主任になったので、いろんな人と会うことができて、楽しかったですね。いろんな支援される方々と打ち合わせをしたり、会うことができて、自分自身も変わったと言いますか。すごく、コミュニケーションを図れるようになったというか。そして、「先生方が楽しくないと、子ども達も楽しくないだろうな」と思い、教務主任になって色々な行事を入れていたという記憶があります。
実際に、今の中学3年の3人を見ていただけると、よく分かるんです。あの子ども達は、話すこともできるようになっています。コミュニケーションを取ることもできているのは多分、体験学習を多く取り入れたからだとは思うんです。その中で、こちらで意識的にやったのは、「必ず振り返りをさせる」、「お礼を言う」。これからはそこがすごく大事になるかなと思っていたので、もう一人の教務主任だった武内先生と話し合いをして、そういうことをどんどん取り入れていきました。

三春校の立ち上げが熱量の原点 今、管理職として思うこと

――先生ご自身の子ども達との接し方や、教員としての考え方について、震災前と後で大きく変わった点は何でしょうか?

鈴木あまり怒らなくなったのが、一番ですかね。許容範囲が広がったというか。震災前はきっちりやるタイプでしたが、かなり臨機応変に動くようになったと思います。やはり震災後の、あの三春校の子ども達の実情を考えれば、その方が絶対にあっているんだというところですよね。
また三春校の立ち上げは、格好良く言えば、私にとってはかけがえのないものでした。いや、もちろん、もうやりたくはないですよ。でも、多分、「先生方と考えながら進めていく、ゼロから立ち上げていく」というあの経験は、「一生に一回しかできないことだったのかな」と思います。
先生方を一体にさせればすごい力が出る、ということをあの時にすごく感じましたので、今は、管理職としてそれが今後もしていけるのかというのが、課題ですね。

――当時の経験が、今の教頭先生としての立場にも生かされているというわけですね。一方で、富岡小も含め、若い先生達の中には震災の経験がほとんどないという先生も増えてくると思います。そういった先生方には、何を伝えていきたいですか?

鈴木これも、難しい課題ですよね。例えば自分自身に置き換えて考えた時、神戸で地震があった時にはテレビで見ているだけで、やはり他人事でしたよね。分からない世代にそれをどう伝えるか。経験していないことをどう伝えるのかというのは、大きな課題だと思っています。
昔の資料を使って話しても、やはり講義形式でしかない。そこをどう伝えていくか。でも、先生方に伝えなければ、子ども達には伝わらないので、なかなか難しい課題だと思います。

――先生が一番伝えたいことは、何でしょうか?

鈴木「自分の命は自分で守れるようにする」というところですかね。あとは、臨機応変さ。避難訓練をやっていても、実際には経路通りに避難できない。経路通りに進めなかった時、どうするのか。避難経路に拘らないという訓練も、これからの先生方には必要かなと思います。
だから例えば、火災からの避難訓練をする時には、普通は設定して案を出して、職員会議で話をするんですよね、ここから火が出るので、こう逃げてくださいと。それをなくしてしまうとか。不意打ちで「××から出火したので、逃げて下さい」となった時、じゃあ先生方はどう逃げるのかなと。それを前もって話しておくとか、そういう臨機応変さが必要なのかなと思います。そうでないと、守れる命も守れない。何が一番大事かと言えば、それは命だということですね。

――震災後の初期、三春校立ち上げの時期と、その頃からの2年間とで、子ども達の変化を感じることはありましたか?

鈴木表情が明るくなっていきましたね。学校に慣れてきたというのもありますし、自分達の本来の居場所とは異なると感じるような不安もあったでしょう。4月からその8月までの間に、子ども達はまったく知らないところで、学校に行っていたわけですよね。まったく知らないところ、知らない先生のところで。そういうものが、仮設校舎ができて、徐々に軽減していったんです。
三春校に来た子ども達は、やはり慣れたところにいたい、慣れた先生に会いたい、教えてもらいたいという子がほとんどでしたので、表情が変わっていきました。保護者の方も同じです。知っている人がいるのといないのではやはり違ったのだなと思います。もしかすると、保護者の方が、その傾向は強いかもしれません。

――仮設の校舎の必要性について、改めて先生はどう思われますか? 災害が起きて、避難先で自治体が仮設の校舎を作るのが一般的だと思うのですが、実体験を通じてのお考えを聞かせて下さい。

鈴木そうですね、やはり適応できない子どもはどうしても出てくると思いますので、その子達の受け皿としては必要じゃないかなと思います。

――仮設の校舎には、「いつまで設置しておくか」という問題が付きまといます。三春校は今回、2021年度末で閉校になりますが、双葉や大熊、自治体によって異なると思います。先生は、どのくらいの期間を目途にというお考えはありますか?

鈴木難しいですよね。まぁ、実態に応じて、としか言えないのかな。大熊さんあたりも、最初はものすごく人数がいましたよね、100何人いたので。それが、今は2、3人になってきています。その実態はやはり考えて、行政がどこかで区切りをつけるしかないんじゃないかと思います。

2021年10月7日(聞き手/久保田彩乃、千葉偉才也)

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