菅野 知加子さん
かんの ちかこ
富岡町出身、中学校教諭。教科は音楽。2011年3月の震災発生時は楢葉町立楢葉中学校に勤務。現在、双葉町立双葉中学校勤務。趣味はトレッキング。
震災時、楢葉町立楢葉中学校1学年の学年主任を務めていた、菅野知加子先生。震災後は楢葉町が会津美里町に一斉避難となりましたが、先生はご自身の避難先である”いわき地区”へ同じように避難した生徒達の「心のケア」を担当しました。生徒だけではなく、時には保護者の悩みにも寄り添ってきた先生は今、震災を知らない世代の子ども達へ「伝えていく難しさ」を感じるのだそうです。悩みながらも生徒に寄り添い続けた、菅野先生の10年を追いました。
「何も分からない」という不安を抱えた避難
――まず学校でのお話を伺う前に、ご自身の被災の状況とご家族の避難についてお話を聞かせていただけますか?
菅野私は3月11日、学校からまっすぐ自宅アパートに戻ったのですが、道路の陥没で迂回を余儀なくされたため、いつもは15分ほどの帰路に5時間かかりました。迂回のために海の方を通ろうとしたら、楢葉の人達から「ここはもう津波が来るから、もうこっちを走っちゃいけない」と言われて。そう教えてもらって今度は元の道に戻ったのですが、戻ったら戻ったで大渋滞。なかなか元の道に入れなくて、仕方がないから他の道を……と進んだら、そこも渋滞で。そんな状態で結局5時間です。
自宅に着いたら、電気もすべて止まっていました。部屋の中も酷い状態でした。
――翌朝の動きはいかがでしたか?
菅野朝になったら、周りの様子が変なんですよ。警察車両がたくさん来て、住民に対して「とにかく避難してください」という放送がありました。停電でテレビも見られなかったので、どうして避難が必要なのかが分かりませんでしたが、とにかく「避難しなきゃなんない」と思って車に乗り込みました。そして車のテレビをつけて見たら、「え、なんか大変なことになってる」と、そこで初めて事態を知りました。「とりあえず川内に逃げろ」と言われて、とりあえずちょっとしたお金や携帯を持った程度で、とにかく車で向かいました。
ただ、川内に向かう道が、もう大渋滞。あとは、白い防護服を着た人が大勢いましたが、それもまた奇妙な光景でした。そのうち、原発が爆発するという情報があって、避難するときに川内を諦め、ガソリンを入れようと思って行ったら、ガソリンスタンドがもうだめで。仕方がないので、なんとかいわきまで走らせました。いわきでは、知り合いからレンタカーを借りました。ガソリンが満タンになっている車が必要だったからです。自分の車をそこに置いて、レンタカーを借りました。その後、郡山に住んでいる弟の元に向かいました。郡山に行ってからは何とかなったのですが、いろいろと不便なところはありました。
――場所によって、インフラの被災状況も様々でしたね。
菅野郡山は大丈夫だったんです。電気も、たしか水も。そのあと知り合いが、新潟からガソリンを持ってきてくれました。でも、いわきで借りたレンタカーもそんなに長く借りてはいられないので、二日後くらいにいわきに戻って車を取りに行きました。
そして「荷物を家から持ってこなきゃいけない」と思って、私はいったん自宅に戻ってきたのです。車で戻っている間に何かものすごい地震のような音がしました。それが、原発が爆発した音でした。
――爆発音を直接聞いたのですね。
菅野とにかく、今まで聞いたことがないような音を聞きました。後になって、それが爆発音だったと知りましたが、恐ろしかったなと思います。放射性物質から守るための防護服だって、自分達は着ていない。避難の途中で見てきた防護服を着た人達のことも、「なんでこの人らだけ、こういう服を着ているんだろう」と思っていましたよね、その時は防護服とか分かりませんでしたから。とにかく、その時は訳が分からない状態で、「とりあえずどっかに逃げなきゃ」という気持ちでした。
一斉避難で散り散りになる生徒達と、避難先の学校で「兼務」になった先生達
――続いて、学校のことを伺います。3月11日当日、被災前後はどのような状況だったか教えてください。
菅野当時は楢葉中学校一年生の学年主任をしていました。地震があったのは卒業式が終わって子ども達が全員帰った後で、校内には先生方しかいない状態でした。
楢葉中は今でこそとても綺麗ですが、その当時は新しい校舎を建設中だったのです。だから被災した時はとても古い校舎で、地震によって教室の天井や黒板が下に落ちてしまいました。生徒がいたら、大怪我をしていたでしょう。 楢葉は結構高い場所にあるんですけれど、海がちょうど見えて、沖合から白いものが迫ってきたのが分かりました。津波情報も、車のテレビで見ました。そこから半月、3月下旬までは、「とにかく、それぞれの」避難先で待機ということになりました。
――先生方も?
菅野はい。私達も校長先生をはじめ色々な方に連絡をしてきましたが、3月の27か28日頃に楢葉は会津美里に避難するという連絡を受けました。
会津美里の役場に集合がかかって、私達教員が集まりました。そこで今後どうするかというのを会議して、「子ども達一人ひとりの居場所、どこに避難したか」を把握するために保護者の携帯電話に連絡しました。詳細は分かりましたが、問題は避難先での学校についてでした。
避難先での学校選びについては保護者もどうしてよいかわからない状態でしたので、「避難先で通えるんだったら、その学校に特別枠で通ってください」とお話をして、正式に手続きができたら、それを私達に連絡していただくようにお願いしました。その電話の時に、子ども達の様子も聞いたりしていました。
あとは、4月になってから私達に招集がかかりまして、会津美里町の本郷中学校に集まりました。その中学校にも、楢葉から行っている生徒が何人か、お世話になっていました。私達はそこで一室を借りて、事務手続き等を行いました。
――事務作業がかなり膨大だったのですね。
菅野はい。そしてその合間に、先生達何人かでグループを組んで、近くの県内の学校に移った子ども達のところに行きました。いわき市立平第一中、二中、三中に移った子は多かったんですが、私はその3校と小名浜、江名を訪問して、子ども達の様子を把握するといったこともしました。
――2010年度時点で、楢葉中学校の人数はどのくらいでしたか?
菅野全学年で300人くらいはいましたね。その子達が移った先で一番多かったのは、いわき地区だったと思います。楢葉町の避難先である会津美里に移ったのは、20人くらいでしょうか。他には、親の実家ということで、県外に行った子もいました。日本全国に避難していました。
――楢葉中学校の先生達は、どこに移られましたか? 皆で会津美里に行ったわけではなく?
菅野主にいわきや会津が中心でした。避難したところの近くの学校に「兼務」となったんです。私の場合は、いわきに避難したから、いわきで兼務というわけです。そのほか、本郷中で仕事していた人もいますし、あとは私と同じいわき地区で仕事をしていた先生も多かったですね。
私は2011年5月からいわきの平三中で約一年間兼務しましたが、そこに来た生徒は一番多かったのではないかと思います。30人くらい来たのではないでしょうか。双葉郡内で、三中に入ったのが100人くらい。平三中はもともと人数が多かったので、生徒を受け入れる教室が足りず、プレハブの教室を建てました。双葉郡の教員は7人くらいお世話になりました。
生徒に寄り添う「心のケア」では、まず静かにその子の話をきくこと
――菅野先生は、平第三中学校も含めたいわき地区の学校で「心のケア」のサポートをされていたと聞いています。具体的にどのようなことをされていましたか?
菅野子ども達の中には「ここではやっていけない」というか、コミュニケーションが取れなくなってしまったんですね。疎外感でもないですけれど、いろいろな意味で「馴染めない」というのがあったんだと思います。そうすると、学校行きたくないとか、親と喧嘩したとか、具合が悪いとか。(そういう子達ばかりではないのですが)そういう子達を中心に……「寄り添う」という感じでしょうか。「どうしたの?」ではなくて、まず静かにその子の話を聞いて、「その子が今、何に大変なのかな」を考える。喋らない子は喋らないですけれど、みんな結構喋るんですよ。涙流しながらとか。震災があったことで、避難したことで、両親が喧嘩ばかりするとか。そうしていたたまれなくなって、兄弟仲も悪くなってしまったり。要するに、家族間がぐちゃぐちゃになってしまった子もいるんです。
また、原発の影響で、当時は双葉郡内から来た子に対して、「来るな」という雰囲気がありました。そういったこともあって、「居場所がない」という子もいたんですよね。その子達の、その時の気持ちを聞いたりもしていました。
――その中には、楢葉中学校で担任をしていた子や、顔見知りの生徒もいましたか? そういう子達の、震災前後での変化が感じられるようなことはありましたか?
菅野震災前に大人しかった子達の中には、鬱みたいになってしまう子もいました。それから逆に、活発になる子もいました。大人もそうですけれど、皆が置かれている状況に順応してやっていければいいでしょうけれど、やはり何かしら合わない部分があると、殻に籠もってしまったり。変化はありますね。いい意味でも、悪い意味でも、いろいろありました。
いい意味でというのは、思いやりが出てきたり、友達のことを考えるようになったり。悪い面では、気持ちをどう表していいのか分からないからなのか、ちょっと羽目を外したり、補導されたりする子もいました。その子の置かれている所にもよると思います。
あとは、震災でいろいろあったのだと思いますが、親御さんが離婚することもあったようです。つらいこと嫌なことがあれば心が折れてしまいます。
――兼務をした平第三中学校では、教科の授業も担当されていたのですか?
菅野最初は、授業はしなかったんです。「双葉郡の先生達はいいから、ここで落ち着いていてください」と言われていました。でも実は、それが一番辛いんですよね。皆が忙しくしているのに、「何かお手伝いしますか」と聞くと、「いやいや、いいから」と。それで一ヶ月ぐらい経って、最初はT2で授業に入りました。そして夏休みが明けた頃から「メインで授業を」とお願いされました。それはそれで楽しかったですね。平三中の先生方には、とても良くしてもらいました。
――従来からの菅野先生の教育方針や先生としての考え方で、震災後にも通用した部分としなかった部分があると思います。震災直後、平第三中学校に行ってから、先生として考え方を変化せざるを得なかった点はありますか。
菅野基本的には変わらないと思いますが、「その場その場に合わせなくては」というのはありますね。やはりどこか兼務というのもあって、気を遣うところがありました。普通だったら、楢葉だったら、「こうだよね、じゃあこうしましょう」と、お互い声を掛けあってできたことが、なかなかできなかったですね。
――子ども達への接し方の面では、何か変化はありましたか?
菅野接し方は、今までと変わりなかったと思います。ただ、心が病んでいる子には、その子に合った対応をしなければならなかったですね。馴染めなかったり、ちょっと具合が悪くなったり、家庭の中で問題があったりするときは、家に行ったり、話を聞いたり。それから時々、親御さんが「違う学校に行っていたんですけど・・・こういうわけで部活が合わなくて・・・」と言った、相談もありました。だから、震災後には、保護者との繋がりももっと深くなったような気がします。
保護者も不安だし、どうしていいかわからない。他の中学校に行っても、そこであまり聞けないことなどを、私達に頼ってくれたのだと思います。そういった状況の中で、子ども達にもいろいろな葛藤があって、なかなか自分を出せなかった子もいましたね。
仮校舎での学校再開 「感謝やボランティアの精神を身につけ、人として変わっていったことは間違いない」
――そして平第三中学校で一年間の兼務をしたあとは、再開した仮校舎での勤務になったのですね。
菅野はい。2012年の4月にいわき市常盤西郷町でコンピューターカレッジの建物を借りて、「楢葉中学校仮校舎」として学校が再開しました。ただ、同じ建物の中に小学校も入ったので、とても狭かったです。
4月当初は1年生が10人いなかったかなという人数で、2年生が6人、3年が9人だったと思います。でも3年生に関しては、「どうしても楢葉中で卒業したい」と言った子達が帰ってきて、24人に増えました。本当は4月に修学旅行を9人で計画していたんですが、2学期に戻ってくる子達がたくさんいると知ってから9月に変更しました。それで9月の暑い中、24人で京都に行きました。
――震災の状況から、少し離れられたような気持ちでしたか?
菅野状況はだいぶ変わりましたが、震災から10年が過ぎた今でも、あの時の記憶は鮮明に覚えています。その当時はつらい面が多かったですが、生徒たちと接している時が本当に楽しかったです。あの子達は、仮校舎をお返しする12月、私や担任が何か言ったわけではないのに、1人が突然号令をかけまして。3年生だけがバッと並んだんですね。その仮校舎に向かって「今までお世話になりました。ありがとうございました」って何回も言うんです。「震災前だったら絶対ない言葉だよね」と思いました。感謝の言葉とか思いやり、そういう大切なものがこの子達の中に身についたんだなあと感じました。
――その後は2013年1月、いわき市中央台の仮設校舎に移り、2015年9月に楢葉町が避難指示の解除を行ったのですね。
菅野はい。子ども達は、仮設校舎に行っても奉仕の心とかそういうのもしっかり身につきました。お互いに認め合うこともできるようになりましたし、震災があって、気持ちの面でいい方向に変わっていったとも感じました。中学生のそういう時期に震災に遭って、感謝とかボランティアの精神とか、そういう「人として変わっていった」ことは間違いないですね。
――菅野先生は、仮校舎や仮設校舎に移った後も、平第三中学校以外に避難した子達と、連絡はとり続けていましたか?
菅野やりとりはありました。なかなか直接会いには行けなかったのですが、東京に行ったついでではないですけれど、「そういえばここに避難していたな」と思って連絡をして会ったり。本人に加えて、ご両親とおじいちゃんおばあちゃんとも会って、心配なことを聞いたり。
また、遠くにいってしまった子に限らず、子ども達が卒業して専門学校生や大学生となった今でも、やりとりをすることがあります。
「もともと子ども達の中にないこと」を教える難しさ
――卒業後でもやりとりをする関係は素敵ですよね。そういった避難先の生徒さんとのやりとりや、ご自身の避難の経験も踏まえ、教員として先生が得たものは、どんなことでしょうか。
菅野ありきたりかもしれないですけど、「絆」のようなものは、得たものに入るのかなと思います。保護者、生徒、教職員、同僚もそうですけれど、そういった人達との絆。
――入学してくる生徒達の中で、世代的に震災の実体験がなくなってくると、先生の「語り」を聞いてもピンとこないとか、映像を見てもピンとこないということがあると思います。そういう部分は今後、どうしていこうと考えていますか。
菅野そこはとても悩むところなんですよ。総合学習の時間でやっても、「もともと子ども達の中にないことを教える」ということは時間がかかるし、やっぱりそういうことは「経験の中でわかってくる」ことが多いですよね。ただ、時間はかかっても、それを伝えることは大事だと思っています。
特に伝えたいなと思うのは、私の場合、「こういうことがあって、いろいろな人の協力があって、今があるよ」ということです。そして、例えば他の地域で同じようなことがあったら、(自分達には経験がないかもしれないけれど)、その人達に寄り添うような気持ちを持ってほしいなと思います。
ただ、これはなかなか難しくて。子ども達に話したり、指導している中でも伝わっていないなというのが分かるんです(笑)。これをまるで自分事のようにして、子ども達に理解させるためには、ものすごい時間と労力が必要なんだなというのが、今年分かったことです。
――では、ご自身が考えられている震災の経験というものを、これからの先生方に向けて伝えたい部分は、どういったものでしょうか?
菅野やはり現実、あったことをそのまま子ども達に伝えて欲しいなということが一つ。もう一つは、相手に伝える大事さや、子どもが子どもなりに考えることの大切さを、子ども達に伝えていってほしいです。なかなか難しいかもしれませんが、震災ではいろいろな心の変化がありますから、生徒の気持ちを考え、対応できる先生方の力があるといいのかなと思います。
――今回、先生達の証言を集めて冊子として記録に残し、後生の先生達に見てもらおうという企画を行っていますが、この企画についてはどう思われますか?
菅野とてもいいことだと思います。誰かが伝えないと、残さないと、そこで終わってしまうじゃないですか。「こういうことがあったから、今がこうなんだよ」という繋がりが大事なので、それを残し、それを教訓として、自分達が今何をしなければならないのかを、考えられる機会ではあるかなと思います。
ただそれを見て、うーんと思う人もいるだろうし、何らかを感じ取るかは個人差があるでしょう。ただ、少しでも「こんなことが昔、数年前にあったんだ」とか「じゃあ自分達がそういう経験をした時にどうするのか」ということを、考えられる機会でもあるかなと思います。
インタビュー:2021 年 7 月28日 (聞き手/久保田彩乃、千葉偉才也)
